2012年05月26日

2-1浄穢思想の歴史(1):インド(ヒンドゥー教)

2 ケガレとキヨメ

…封建社会の身分制度のもとにおいては,同和地区住民は最下級の賤しい身分と規定され,職業,住居,婚姻,交際,服装等にいたるまで社会生活のあらゆる面できびしい差別扱いをうけ,人間外のものとして,人格をふみにじられていたのである。

                             「同和対策審議会答申」

「人間外」とは,どういう意味なのか。なぜ被差別民は「人間外」とされたのだろうか。
『部落史用語辞典』には「社会構成体の最下層に位置づけられ,政治的・経済的・社会的諸条件において基本的人権を無視され,禽獣的な取扱いを受けた階層の人」と定義されている。文字通り「人間の外」に位置づけられた「人間扱いされない存在」という意味である。
「同じ人間なのに差別を受けて…」と言われるが,本来は「同じ人間と見なされなかった」ということである。その理由は彼らが「穢多」と呼ばれる文字の通り「穢れが多い」存在だからであり,「穢れを持ち込む」存在と考えられたからである。
そして,「穢れ」はうつる(伝播する)と考えられていたため,彼らと接触することは「穢れ」がうつることであり,「穢れ」がうつると困るから「人間の外」(自分たちの外)に彼らを遠ざけたのである。

「触穢」とは,人の死や出産,宍(肉)を食することなどを不浄・穢れ(ケガレ)たと考え,これに接触した人が清浄の身にもどるまでは朝廷の行事や神事に携わるのを忌んだことをいう。
927年に成立した『延喜式』にはケガレについて細かい規定がある。これは,人々の生活における穢れの禁忌を制度化することで,国家の管理の下におこうとしたものである。

凡そ穢れ悪しきことに触れ,まさに忌むべきは,人の死は三十日を限る(葬日より始めて計う),産は七日,六畜の死は五日,産は三日(鶏は忌の限りにあらず),それ宍を喫らわば三日(これ官のみ,尋常これを忌む,ただし祭の時に当たりては,余の司も皆忌む)凡そ,宮女懐妊せば,散斎の日の前に退出せよ。

 『延喜式』

三不浄
人畜の死からでる「黒不浄」,出産にかかわるものは「白不浄」,女性の生理など出血にかかわるものは「血穢」とされる「赤不浄」を合わせて三不浄という。

凡そ甲処に穢あり,乙其の処に入らば著座を請う。下も亦同じということで,乙及び同処の人皆穢となす。

                            『延喜式』

三転

直接に穢れに触れた「甲」なる人の所に「乙」が出入りしたならば,「乙」および「乙」と一緒に住む人は皆穢れるとし,「丙」が「乙」の所に出入りしたならば,「丙」だけの穢れとし,「丙」の同居人は穢れとしない。ただし,「乙」が「丙」の所に入れば「丙」の所の人は皆穢れである。また,「丁」が「丙」の所に出入りしても穢れとはみなさない。このように穢れの伝染力を衰退させながら消滅していく伝播の過程を定めている。


まず「浄穢思想」がどのような歴史経緯を経て日本の文化や思想,人々の意識に浸透していったかを簡単に概観しておきたい。

浄穢思想はインドのヒンドゥー教に起源があり,密教や神仏習合などと関連しながら日本に受容されたものと考えられている。

古代インダス文明は青銅器や文字をもつ都市国家として栄えていたが,紀元前1500年〜前600年頃に,西方から鉄製の武器や馬車をもつアーリア人が進入を始め,先住民を征服しながらパンジャーブ地方・ガンジス川流域へと生活圏を拡大しつつ農耕社会を形成していった。アーリア人は優位な立場にはあったものの完全に先住民を追い払う形はとらず,人種的・文化的に融け合いながら新しい社会をつくりあげた。ここでは祭式が重要性をもち,司祭の権威が高まるにつれて排他的となり,それはしだいに身分制度へと発展していった。これが「ヴァルナ(種姓)制度」の始まりである。

カースト
インドにおける社会的身分制度。多くの場合差別的である。ポルトガル人がインドにこの制度をみてカスタ(Casta)と呼んだのが起源。インドではヴァルナ(色)とかジャーティー(生まれ)とかがこれに相当することばである。伝銃的なヒンドゥー教経典によると,神はバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・スードラの四つのカーストを定め,各々のカーストはダルマ(法)により,カースト外の人々とともに食事すること,相互に結婚することを禁じている,とする。これがヴァルナである。たしかにヴァルナは後期ヴェーダ期にバラモンが理論化し,為政者たるクシャトリヤが支持したときにはある程度現実と一致していたと思われるが,現在ではヴァルナはサンスクリットの経典に記されている全インド的な,理論的なヒエラルキーとされ,現実には数千のカースト,およびカースト外の不可触民といわれる人々がいる。ともに食事することの禁や通婚の規則も時代や地域によって異なっている。したがってカーストは地方的な単位であり,ある程度職業と重なり,共通の儀社・習慣をもち,結婚と伴食に関するタブーを共有し,浄・不浄の原理でヒエラルキーを形成するグループといえる。

祭祀を司り祭贄によって神々を満足させ,祭式に関する専門的知識をもち祭式教学を独占して神の恩恵を人々に伝えるという祭司階級のバラモンは自然現象を神として崇め,神々への賛歌や祭の儀式を「ヴェーダ」にまとめ,宗教的・社会的指導者となり,その権威を保持し続けた。この宗教がバラモン教である。

バラモン教
インド=アーリヤ人の間から創始者のない民族宗教として生まれ,しだいに非アーリヤ人の間まで広がっていった。前10世紀〜前8世紀から遅くても後数世紀までを狭義のバラモン教という。

【バラモン教の特質】

@ インド亜大陸に生まれ育った開祖のない民族宗教。
A バラモン教徒は世襲的で,それ以外の人たちの改宗が難しかった。インド=アーリヤ人が主体であるが,ドラヴィダ人を征服していく過程において,例外的にドラヴィダ人は改宗することが許された。
B ヴェーダの権威は絶対で神聖である。
C バラモンは祭祀およびヴェーダの教授を独占し,宗教的・社会的生活の頂点に立つ。
D 四種姓=カースト体制がしだいに確立。四種姓は,第1位バラモン,第2位クシャトリヤ(刹舎利,王族。政治や軍事に従事,自分のための祭祀・ヴェーダ聖典の学習・布施。)第3位ヴァイシャ(毘舎。商業・農業・牧畜,自分のための祭祀・ヴェーダ聖典の学習・布施。)第4位シュードラ(首陀羅。上位三種姓への奉仕。)以上四つの宗教的・社会的区分である。一方,カーストはより細別された固有の職業をもった排他的集団で,大きな枠組みの四種姓に属している。四種姓とカーストは,排他的内婚・世襲的職業・上下貴賤浄不浄の秩序体系,という特質をもっている。
E バラモン教の後半期には初期のバラモン教学が成立した。
F 神に関して,バラモン教学上はさまざまな説があるが,信徒たちは現実的には多神を崇拝していた。
G バラモン教の寺院は,他の宗教に一般に見られる総本山=末寺体制よりは各村落に密着している。また四種姓=カースト体制も,それらが相互補完的・相互扶助的自治的な村落共同体を形成するようになってきた。

紀元前7世紀ごろには多数の部族社会が成長していたが,そのうちの4大国は強力な組織をもち,国家としての形を整えながら領土を拡大していった。最大の国マガダ国のマウルヤ王朝第3代のアショーカ王(前273〜前232ごろ)はインド亜大陸のほぼ全域を統一し,マウリヤ帝国を築いた。アショーカ王やクシャーナ王朝のカニシカ王は仏教を保護し,ガンダーラ美術などが栄えた。アショーカ王の死後ほどなく帝国は分裂したが,この間に各地方は文化的・経済的に大きく発展した。

4世紀におこったグプタ朝(320〜550)の頃より封建社会が形成されるようになり,再びバラモン文化が栄え,ブラフマー神・シヴァ神・ヴィシュヌ神などの土着の信仰や習俗と融合してヒンドゥー教が成立していった。

ヒンドゥー教は宗教だが,単なる宗教の域を超え,宗教的レベルを異にするさまざまな宗教的観念や儀礼,行法のみならず,カーストという社会構造や慣行,倫理など,生活文化のすべてが含まれる生活法といえるものである。
そこで強調されることは「今あなたが存在しているのは前世の行為の結果であるから,そのカースト固有の職に専念しなければならない。それによってのみ,来世の幸福が約束される。他のカーストの仕事をいくらおこなっても成功しない」という「輪廻」と「業」の観念である。

ヒンドゥー教
ヒンドゥー教には多くの神々がいる。シヴァ神やヴィシュヌ神は全インドに神祠があり,広く信奉されている「偉大なる神」である。一方,一地方にのみ信奉されている神もいるし,村々には独自の村神が何神もある。大小さまざまな神がいて,とくに中心的な神はいない。しいていえば,古来よりブラフマー,ヴィシュヌ,シヴァがそれぞれに宇宙の創造,維持,破壊をつかさどるという3神一体説(トリムールティ)があるが,これは教理的なもので,ブラフマーは,ほとんど実際には信奉されていない。神々の系譜は複雑である。アーリア人のもち込んだ神々は自然現象の擬人化で,たとえばインドラは雷の神である。シヴァやヴィシュヌはヴェーダ期の神々と関係はもちつつも,実は先住部族の性格を吸収し,あるいは付加して大きくなった。神話,伝説上の人物の神格化されたものもある。ヴィシュヌの第9番目の化身はブッダで,元来は人間であるし,クリシュナもおそらく実在の人間である。スールヤ(太陽)神はヴェーダ期の神だが,のちにイランからきた別の系統の太陽神崇拝と習合している。女神は5世紀ごろからとくに有力となり,男神が1人または複数の神妃をもつようになった。方角神もいれば,動物も神格化されている。さまざまな鬼霊も少なくない。ヒンドゥーパンテオンには八百万(やおよろず)の神々がいるのである。さまざまな神々の背後には,実は,唯一の最高者の観念が横たわっている。その最高者は神々の上に存在する万物の原因であるが,われわれの認識を超える。そのためにこそ,シヴァやヴィシュヌらのすべての神は具体的形態をとりつつ,最高者の「顕現」として存在すると考えられている。すなわち,すべての神は最高者の異なる局面を代表するものであり,したがって,相互に排他的ではない。ヒンドゥー教にはいわゆる組織化された宗派ないし教団はない。なるほど,シヴァ派やヴィシュヌ派という表現はありうるし,各派の行者は額に独自のマークをつけたりする。しかし,これは主としてシヴァ神やヴィシュヌ神を崇拝しているということであって,行者や信徒の未組織の集まりにすぎない。神祠や寺院はそれぞれ独立していて,当該地域とのかかわりのなかで,1人ないし複数の僧が住みつき,儀礼をつかさどる。

【儀礼】
人は儀礼を介して神々と交流する。その基本である礼拝の最も普通の形式はプージャーという。神への崇拝と奉仕を本質とし,花,香,灯明,花環,飲食物を祈りと感謝の言葉とともに捧げる。個人の礼拝や家庭での祭祀,公共の祭りなどがこの形式で行われる。現在プージャーという言葉はドゥルガー(女神)・プージャーとか,サラスヴァティー(女神)・プージャーというように,数日以上つづく祭を示すこともある。ホーマという形式はプージャーよりも歴史は古い。火壇をつくって火をたき,火中に供物として穀物や油を投じる。供物は煙とともに天に昇って神々のところにいたるという。のちに仏教に摂取され,護摩という音写語をもって日本にも伝わっている。いけにえを捧げて,きわめて現実的な恩恵を求める儀礼は,現在でも村神祀りにはたびたび行われる。また,ベンガル,アッサム地方でとくに信奉されているカーリー女神(シヴァ神妃の1人)の礼拝にもみられる。今日でも,ヒンドゥー教徒は家の神棚,神祠,寺などではプージャーを盛んに行う。おりにふれて寺に詣で聖地に巡礼するのはヒンドゥー教徒の個人の宗教生活の重要な一部といってよい。寺や聖地ではタンク(沐浴用の池)や川で沐浴する。沐浴は人を宗教的に浄化し,罪を洗い浄め功徳を増すものと信じられている。とくに聖地における沐浴は功徳が大きく,たとえばガンジス河に沿うファーラーナシー(ベナレス)には全国からヒンドゥー教徒が集まってくる。人生の節目を通るときに行われる通過儀礼はさまざまだが,現在普通に行われているのは受胎式,命名式,お食べぞめ式,入法式,結婚式などである。入法式とは主としてバラモンの少年が7〜8歳に成長したときに行うもので,聖索(せいさく)をかけてもらい,精神的に生まれ代るという。その他の儀式の意義は日本と同様である。

【教義と人生観】
ヒンドゥー教に特定の教義はない。ヒンドゥー教徒であることの最大の標識はカーストの成員たることで,ダルマ(具体的にはカーストのルール)を守る限り,彼はヒンドゥーである。したがって,いかなるイズムもヒンドゥーであることとは関係がないし,同時に,いかなる思想もヒンドゥーの思想たりうる。しかし,すべてのヒンドゥー教徒にほぼ受容されている思想もある。業(ごう)と輪廻(りんね)もその一つである。この思想は人々の倫理観の基盤をもなすものである。善悪の業はしばしば,功徳(プニヤ)と悪徳(パーパ)という観念に置きかえられる。功徳を積みうる行為は社会への布施や奉仕,そして正しい生活,とくに神への献身などがあるが,善をなす理由は死後に生天して安楽な生活を送るためにある。業,輪廻の観念は,高い教育を受けた人々のあいだでも当然のこととして受容され,ダルマの積極的実践を支えている。ヒンドゥー教は古代から実存レベルの宗教観念と行法を発達させた。ウパニシャッド文献が強調する「梵我一如(ぼんがいちにょ)」も,ヨーガの伝承の禅定と三昧も,その例である。仏教の涅槃もそうであるし,タントラ教の性交を行法として行うという教えも,めざすのは宇宙の根元の力であるシヴァ・シャクティとの合一である。こうした行法は一般の人間には難しいが,誰にでも可能な神との合一の道として,バクティ(信愛)が説かれた。自我をすべて捨て,無私になりきり,まかせきって,ひたすらに絶対者への信と愛を捧げていく行法である。とくに中世以降にはさまざまな流れが生じ,宗教運動がおこっている。とくにヴィシュヌ派の系統で強調されたが,シヴァ派にもある。イスラム教が入ってからは,イスラーム神秘主義(スーフィズム)と相互に影響をわかちあい,人々をカーストの差を超えた信仰にかり立てていった。

ヒンドゥー教は信仰と生活実践を一体化している宗教で,社会制度・法律・倫理・道徳体系と不可分のもので,その中心になっているのが「浄穢思想」である。
次に,その特徴をまとめておく。

@ 万物をすべて浄穢で体系づけ,それを人間界に適用したものがカースト制度である。
A 死・産・血の三不浄と生理的排泄物,罪や災いを穢れとする。
B 穢れは単なる観念ではなく,生きている実態であるから,接近・接触,影を踏んでも視線が合っても伝染する。
C 穢れに関わる仕事に従事する者は穢れた者となる。
D 穢れた場合,厳しい戒律のもとで浄化儀礼をしなければならない。そうしなければ,穢れはその人の属性となってしまう。
E 不可触民差別,女性差別,障害者差別などが一体となっている。
F 「マヌ法典」が聖典・教本である。

マヌ法典
成立の下限は西暦200年ごろとされ,それ以来のインド法典類のなかでも最も優れたものであると同時に,バラモン教・ヒンドゥー教の生活の支柱となった。一般にそれ以前の律法経より,法典が成立したとされるが,マヌ法典も,ヴェーダーの一学派のマーナヴァ派の律法経に立脚したものとされる。12章2,684条よりなり,内容は,現代的意味の法律的規定は4分の1で,宇宙論・宗教・道徳・倫理等に関する事項を含み,四種姓の権利・義務・生活期の通過儀礼,種々の通過儀礼を規定し,輪廻・解脱までに及んでいる。法律的条項としては,国家や国王の行政上事項・相続法・婚姻法などを含んでいる。立脚点はマーナヴァ派であるにもかかわらず全インド的性格を持ち,やや理念的・文学的・教訓的色彩が強いため,インド人の生活のみか内面にも深い影響を与えつづけた。バラモン中心の四種姓=カースト体制維持に貢献したが,下位階級には厳しい。


その後,インドでは密教がおこる。密教はインドで生まれ育つ過程で,バラモン教やヒンドゥー教の神々や儀礼を取り込んでいった。
わが国に伝えられた密教すなわち真言密教・真言宗はインド大乗仏教の最終段階を迎えた7,8世紀ころに大成されたもので,善無畏・金剛智・不空などによって中国に伝えられ,恵果よって確立された。

日本では,奈良時代には雑密が伝わっていて,修験道や神宮寺という形で神仏の集合が進んでいった。9世紀の初め,空海は中国に渡り,恵果から直接に大乗真言密教を学び,帰国後に高野山金剛峯寺や京都の東寺などを拠点として布教していった。

posted by 藤田孝志 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 部落史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1-3「近世政治起源説」批判

先の講演で山本尚友氏が整理されている「近世政治起源説の三類型」「近世政治起源説の功罪」についてまとめながら,「近世政治起源説」がなぜ(どこが)問題であるかを明らかにしていこうと思う。


解体・再編説(原田伴彦)
中世社会における賤民身分がそのままの形で近世社会に入っていったわけではない。戦国時代,日吉社の神官の息子であった豊臣秀吉や美濃の油売りであった斎藤道三などのように,身分の低い者が高い身分へと実力(武力)によって成り上がっていく下克上の風潮がおこる。中世の賤民身分もこのような社会の動きの中で消滅しかけており,その消滅しかけていた賤民制度を,近世権力である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が新たに近世において再編したのが近世の賤民制度である。

この説の問題点は,身分の解体と下克上が必ずしも概念として同じにならないということである。つまり,油売りの斎藤道三が個人として戦国大名になったのが下克上であって,「油売り」そのものは商人の中でも低い身分であるという社会的位置は変わらないまま江戸時代につながっている。穢多身分にしても,中世の京都では「河原者」といわれ,豊臣秀吉が検地をしたときは「かわた」という呼称になり,江戸時代中期以降に「穢多」という呼称に変わっていくけれど,彼らが日本社会の中で人間外・社会外の存在として位置づけられているという身分上の位置は,中世から江戸時代に至るまで同じ位置に置かれ続けてきているのである。

このことから,中世の賤民身分は基本的には同じ枠組みで近世につながっているといえる。なぜなら,賤民身分の多くが権力に何らかの形で保護され庇護される特性をもっているからである。穢多身分の場合,軍需品である皮革を生産して上納すると同時に,武士の下で刑吏役を担うことで一定の給分と土地を保証されている。であるから,他の職人身分などが流動的であった戦国時代にあっても,かわたや河原者という皮革を武士に供給する賤民集団は武士に把握され続けている。このことは近世初頭,江戸時代においても変わっていない。

河原者
中世においては,河原に居住し,種々の生業に従事したものをさすが,近世には,歌舞伎役者など芸能関係の人々をとくに意味するようになる。古代・中世の河原は,現在のそれより広く,しかも農業に適さず無税地であったため,各地から集まった逃亡農民や飢民が居住し,川の流れや河原そのものを利用して生活を営んだ。とくに,京都・鴨川の河原は,これらの人々の活動の舞台となった。ところで,こうした河原に人々が住みつくようになったのがいつごろからか不明であるが,『左経記』長和5年(1016)正月の条に,〈牛一頭令労飼之間,昨慮外斃之,河原人等来向,剥取件牛之間云々〉の記事があり,このころすでに,斃牛馬を処理し皮革を扱う「河原人」のいることが知られる。皮なめしには,大量の水と皮干し場が必要なため,河原を利用したものであろう。しかし,これは河原者の職業の一部にすぎず,寺社や貴族の行う工事・普請などには,さまざまな労働力供給源として利用された。それらは,庭園の築造修理や建築の下働き清掃や運搬など,いっさいの雑用を含んでおり,河原者は,こうした雑業者集団としての性格を強めていった。彼らのなかには,寺社や貴族に直接隷属するものも現れ,それぞれの職業において勝れた才能を発揮する人々も登場する。『蔭涼軒日録』の1491年(延徳3)10月の条には〈河原者三人鑿小井之底,塗竈安釜,珍重云々〉の記事があり,専門的な井戸掘りの技術をもった職人も現れる。その他,石組み・屋根茸き・壁塗り・かまど塗りなどがあり,とくに東山時代,「泉石の妙手」として,8代将軍義政に重く用いられた善阿弥は,慈照寺銀閣の作庭で知られ,その築庭技術は,義政の高く評価するところとなった。また,伏見城の築庭や盆栽・庭石の宰配を行った人々も,当時の高名な山水河原者であった。河原者はこうした土木・建築以外にも,川の流れを利用した染色業や運送業にも従事し,馬借や車借とも深い関係があるといわれている。このように,河原者はさまざまな職業に従事し,土木・建築・商工業の各分野に重要な役割を果たすが,その居住地である河原は,いわば社会外の空間であり,堤上と河原のあいだには厳然たる差別が存在したといわれている。しかも,たび重なる大水は,その住居をも押し流し,河原は多くの死体で埋ったという。飢饉に際しては,河原は死骸の捨て場として利用された。1461年(寛正2)の大飢饉の際,京都では2カ月足らずのうちに8万2千人が死んだといわれ,四条の橋から鴨川の上流を見た『碧山日録』の筆者は,〈流屍無数,如塊石磊落,流水壅塞,其腐鼻不可当也〉と記録している。こうしたことが,河原者に対する卑賤観を助長したであろうことは疑うことができない。これが,河原者に対して,犯人の追捕,囚人の監視・護送,刑の執行などを義務労役として課す契機となる。死刑の執行やさらし刑は,古くから河原で行われるのが通例で,河原者が使役されていくうちに,しだいに義務化したものと想像される。『蔭涼軒日録』の長亨2年(1488)8月11日の記事には,〈使河原者刎頭〉とある。その他,河原者には,生活の糧を求めて,遊芸に従事するものも多く,祭文・説教節・浄瑠璃・三味線・蜘蛛舞・からくり・見世物など多岐にわたっている。ここから,近世の人形浄瑠璃や歌舞伎が生みだされてくる。河原では,南北朝以来,田楽・猿楽・角力などの勧進興行がたびたび催され,広い河原には舞台や桟敷が構えられ,その作業要員としても河原者が使役されたため,これらの興行に対する河原者の発言力がしだいに増し,諸興行の支配権が生まれる。これが,近世における櫓銭などの起源となる。近世には,こうした諸芸能に従事する人々を,主として河原者と呼ぶようになるが,歌舞伎役者が1匹2匹と数えられたといわれるように,近世においても賤視の対象とされ,士農工商の外の身分として位置づけられた。


社会構造断絶説(脇田修)
中世社会と近世社会とが基本的に社会構造として異質であること,たとえば武士階級による支配のあり方などが異なっていることをベースに,独自の役負担を課せられた近世賤民と中世賤民をひとつのつながりのものとして理解すべきではない。近世の被差別部落はこのような固有性があるから「近世部落の起源」は近世初頭にしか求められない。

秀吉が出した中間奉公の禁止令によって町人・百姓が武士に奉公することが禁止され,刀狩令によって帯刀が禁止される中で近世身分制度が整備されていき,近世の百姓は基本的に帯刀せず名字ももたず農業に専念して村に住む人間と定義される。
それに対して中世の百姓(上層の百姓であれば)は刀や名字も,自分の領地や家来さえもっている。
このように,近世の百姓と中世の百姓ではまったく違っている。しかし,近世百姓の起源は近世の初頭に求めても,百姓の起源は近世初頭には求めず,古代の百姓に求めている。同様に,近世賤民身分の起源は近世初頭に求めることはできても,賤民身分の起源は近世に求めることはできない。


近世権力創設説(船越昌・石尾芳久)
近世権力が一向一揆に参加した民衆を被差別身分にすることで,被差別部落をつくった。

この根拠とされるべき事例,一向一揆に参加した者が被差別身分にされた例が一例もない。

一向一揆 
一向宗は,親鸞が創始したが,単に“しんしゅう”ともいう。一向一心に阿弥陀仏を念ずるところから,一向宗と呼ばれる浄土真宗の異称である。一揆は,代官・守護勢力など時の支配者に抵抗した近世農民の集団的暴動であって,武装蜂起にまで発展した反抗運動である。その性格によって一向一揆のほかに,土一揆・国一揆・徳政一揆,近世においては,百姓一揆がとくに有名である。北陸・東海・近畿各地で,室町後半におこった仏教一向宗(浄土真宗)信者の一揆を一向一揆という。簡単な宗教闘争ではなく,国一揆(応仁の乱ごろから,農村土着の国衆・国人などが,守護大名と戦った),や土一揆(農村の有力地主がその中心となって蜂起して戦った一揆)などと同じく,室町後半当時の世間の風潮が表面化した一揆であって,戦国大名や守護大名に反抗する強力な一大社会勢力であった。
一向宗は,本願寺の8代法主であった有名な蓮如らの努力で,15世紀以後,とくに北陸と東海および近畿地方の農村を中心にその勢力を拡大した。一向門徒(もんと,信者)は,しばらくすると,これらの地方においてその勢力を浸透させた。まもなく講(こう,信仰上の集会)を基礎として,実に強大な組織を誇るまでに成長をとげた。必然的に搾取に狂奔する支配層に反抗する段階から,対立する程度にまで成長していった。応仁の乱(1467・応仁1)は,東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが,前後11年(1467〜77・応仁l〜文明9),足利将軍家の相続問題を原因として,京都を中心にして,これら東西の大軍が激突した大乱であった。京都はもちろんのこと,その郊外にいたるまで,この応仁の乱の戦場と化し,内裏はいうまでもなく,京都の大小の邸宅を手初めとして,京都の美は戦火の犠牲となった。これからのちは,室町幕府の威令は,ついに地に落ち,やがて日本全国において,さまざまな群雄が割拠するという異例の事態を招来するとともに,戦国時代を導いた。この後は,いわゆる下剋上の勢力はいっそう激化し,今まで支配階級から弾圧されていた門徒農民の一揆も,しだいにその活動が活発となっていったのも,この時代の一つの注目すべき風潮である。一向一揆は,はじめのうちは,地方土着の武士や土豪を意味する“国人”に反抗するとともに対抗する運動を展開していった。一方,国人の一部は,自分の力だけでは宗教的信念に裏づけされた死を恐れない一向一揆を単なる力で抑えることは難しいと悟った。そこでまず最初は門徒と妥協して,この難局を乗りきろうと試みたが,そのうち国人の一部は進んで門徒に参加するとともに,従来の守護大名らに取って代わるために,一向一揆の強力な組織と勢力を利用しようと試みる野心家まで生まれてきた。こうして一向一揆は,しだいに,領国の支配権の争奪戦の様相を示しはじめたのである。一向宗の盛んであった越中(富山県)・加賀(石川県)・越前(福井県)・三河(愛知県)・紀伊(和歌山県)などで,当然のことながら,一向一揆はしばしばおこり,特筆すべき事件として,加賀の強力な一向一揆がある。1488年(長享2)守護大名だった有名な富樫政親(とがしまさちか)の軍勢を打ち破って,富樫を敗死させるほどの猛威をふるった。それからのち,100年近くの長い期間にわたって,一向一揆の門徒による加賀の領国支配が永続したので,人々はこれを〈百姓のモチタル国〉といって驚くとともに,周囲の支配階級からは恐れられたという。ここで注目すべきことは,一向一揆は,農村における宗教的な組織が,国人層や農民層の,現状打破のための闘争に利用された傾向が強くみられるのであって,一向宗の教えがストレートに一揆の思想的なバックボーンとなったと単純に考えることはできないということである。すなわち本願寺は,最初のうちは,門徒の一揆を厳重に禁止していた。蓮如の本拠だった越前の吉崎御坊は,守護朝倉氏に責任を問われて1506年(永正3)に破壊されてしまった。

【石山合戦と一向一揆の終末】
織田信長と大坂石山の本願寺とのあいだで1570〜80年(元亀1〜天正8)の11年間もの長いあいだ,激しい戦いが行われた。真宗の成長と発展につれて,15世紀の中ごろから,一向一揆が各地で頻発したが,これらの一向一揆と本願寺は関係を保ちながら,だんだんと強力な一大勢力へと発展し,やがてはいわゆる本願寺王国を形成していった。日本全国の統一を志した信長は,近畿へ軍を進め,本願寺は全国の門徒に指令を発してこれを動員し,また反信長の諸大名とも連絡を緊密にし,信長と激しく争った。織田信長は,伊勢(三重県)の長島をはじめ,越前・加賀・紀伊の門徒たちを次々に打ちくずし,本願寺の経済的・軍事的背景を崩壊させるようつとめた。本願寺は,信長の執拗な包囲攻撃に切りくずされていき,ついに朝廷に仲介を依頼した信長と講和し,開城し,顕如は紀伊へ退却して行った。このようにして約1世紀以上にわたって各地で発生した一向一揆は,だんだんと終わりをつげ,最初の念願であった信長の畿内平定もようやく実現することになった。

【石山本願寺と一向一揆】
中国経営の必要から,織田信長は大坂を軍事的・政治的の拠点としようと思い,この地に城を築こうとし,1570年(元亀1)に石山本願寺の顕如に対して,寺を移すよう頼んで拒絶された。前後11年間の戦いの後,1580年(天正8)信長は正親町天皇に奏請し,勅命が下って和議が同年閨3月に成立した。顕如は4月に石山本願寺から退寺していった。顕如の子の教如はその後も戦いをつづけたが,7月末に敗れて石山寺から退いた。

このような批判や問題がありながらも,「近世政治起源説」が部落史研究上で果たした役割は大きく,特に次の2点が成果と考えられる。

○「近世政治起源説」によって,初めて本格的な近世賤民制度の研究が始められたこと。
○ 賤民制度として,中世と近世の非連続性が明らかにされたこと。

つまり,中世ではかなり流動的であった身分制度が近世社会で再編され固めなおされて,その中で被差別部落が再定置されていくことが明らかにされた。


次に,「近世政治起源説」が生み出した問題点(功罪)をまとめておく。

その第1は,身分制度に対する政治権力の関与について過大に評価しすぎたという点である。
身分が政治権力とまったく無関係に生成したり定着したりすることはありえないが,逆に身分を創造するということもありえない。権力ができるのは,すでにある身分を合わせたり分割したりすることであって,無から有を生むような身分創設はできない。
にもかかわらず,政治権力が被差別部落を創出したとする「近世政治起源説」が長く戦後社会の中で続いてきた最大の要因は,部落解放運動が長い間「行政闘争」を中心に展開してきたことだと考えられる。
解放運動の主流が行政闘争中心であった時代,「政治権力がつくったものを,今の権力がなくすのは当然である」を大義名分にして行政施策(同和事業)を要求してきた運動体にとって「近世政治起源説」は都合の良い理論であったのである。そして,行政闘争だけで部落差別を解決することが無理だとはっきりしてきたことを背景に,部落の中世起源が見直されるようになったのである。つまり,部落差別は確かに権力によってつくられ,権力によって維持されていくが,それは日本社会の構造に合った形でつくられ,日本社会がそれを内面化し続けてきたからこそ今も差別が残っているのである。このことを明らかにし,日本社会の根底にあって差別を容認させてきた社会の有り様そのものを考えていくためには,中世起源から考察していく必要がある。 

第2は,被差別身分を創出することができるほどに政治権力が絶対であり巨大であり,権力の意図するとおりの社会が江戸時代に実現したという錯覚を人々に与えたということである。
「民衆の団結を防ぐための分断支配」として,あるいは「重い年貢を搾取される百姓の不平や不満をそらし,一揆を防止するための鎮め石」として被差別身分が存在させられ,悲惨な生活を余儀なくされたというイメージを人々の中に作り上げたのである。なぜなら,権力の絶大さを強調することで「近世政治起源説」の信憑性が高まるからである。

はたして江戸時代の政治権力はそれほどに強大で絶大なものであったのだろうか。教科書に記述されている「百姓一揆の件数グラフ」は年を追うごとに件数を増やしている。このことは,分断支配の効果がなく,一揆の防止にも役立っていないことを証明している。あるいは,杵築藩では,10年間の年貢皆済の恩賞として,その村役人・平百姓・穢多身分すべてに褒美を与えている。ただし,褒美は身分間で差が設けられていた。

「近世政治起源説」は解放運動の流れや同和教育の流れの中で,教育・啓発の場での「わかりやすさ」を重視した結果,「身分制度のピラミッド図」のような極端な図式化,『カムイ伝』のような一面的な解釈が行われたのである。この図は身分の違いを「上下」に表しているため,「価値あるもの=武士」「価値のないもの=部落」として認知され,「悲惨な部落」が強調されてしまう結果を生んだ。そして,明治以後の歴史過程の中で「社会の最底辺で,貧困で悲惨な生活をする部落」となっていったにもかかわらず,その原因を江戸時代の政治権力に求め,その悲惨な実態は江戸時代から変わらず現在に至ったと認識されようになったのである。「江戸時代の権力者が悪い」「自分は(江戸時代の)部落に生まれなくてよかった」といった生徒の感想も当然のことだ。なぜなら,部落差別は過去に発生した問題であり,自分たちに責任も関係のないことと受けとめてしまうからである。

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1-2「近世政治起源説」の歴史的背景

「近世政治起源説」を最初に唱えたとされる藤谷俊雄氏(部落問題研究所初代理事長)の考えは,「太閤検地の際に,検地帳の名請け人のなかにあった『かわた』とか『さくい』という中世の賤民身分を,ある時期,法制的に固定化して身分間の移動ができなくしてしまった」ことから部落が成立したというものである。

「近世政治起源説」の論拠を辻本正教氏は,次のようにまとめている。

中世から近世に移行する大きな時代の激変を経て(つまり戦国時代),「かわた」と呼ばれた人々を核にして中世社会にいた様々な賤民の一部を組み込み,近世権力がその中から新しく「穢多」「非人」という近世の身分を再編成した,というものと,中世社会と近世社会の間には大きな断絶があり,身分間の交流が緩やかな中世と厳しく分けられた近世とでは同じ穢多でも社会に占める位置に大きな違いがある,という説がミックスされたものが現在の近世政治起源説といわれる。

(『ケガレ意識と部落差別を考える』)

つまり「近世政治起源説」とは「被差別部落は近世の政治権力が創り出したものであり,近世の賤民身分は近世幕藩権力が創りだした」という説である。その目的は「近世幕藩権力が人民を支配しやすいように,人民を分断支配するため」である。すなわち,非生産身分である(百姓などの年貢によって生計を立てる)武士が百姓や町人に対する支配を維持していくうえで,彼らからの不平や不満をそらす必要があり,そのために彼らより下に「穢多」「非人」身分を法制度化し,彼らに「まだましである」という優越感をいだかせるのに利用したというのが「近世政治起源説」である。 

この説がなぜ運動体のみならず「同和対策審議会」や政府までが採用し,長く教科書にも採用されてきたのだろうか。
「近世政治起源説」の歴史背景について,山本尚友氏の講演(「近世身分制をどう捉えるか」『部落解放史ふくおか』第95号)からまとめておく。

「近世政治起源説」を最初に主張したのは三好伊平次である。
彼が戦時下(1943年)に出版したのが皇国史観をベースにした『同和問題の歴史的研究』(同和奉公会)であるが,その中で彼は,穢多・非人の問題というのは,江戸時代になって身分を強く締めつけたことが現在の問題の大本となっているという説を展開している。

皇国史観とは天皇親政の時代を良しとし,そうでない時代を暗黒とする歴史観で,奈良朝から平安時代初期までの天皇が実権を握っている時代を最も輝かしい時代と考え,武士の権力だけとなった江戸時代を最も暗黒の時代と考えている。
三好は,この皇国史観に合わせて江戸時代は被差別部落にとっても暗黒の時代であったと説いている。

三好伊平次
明治期において全国に先駆け岡山で部落民自身による自主的運動団体である「備作平民会」の創立者として,大正期以降は内務省の融和政策立案者として,さらに昭和期には『同和問題の歴史的研究』を著した部落史研究家として著名である。
1902年,岡山県の三好伊平次を中心として結成された備作平民会が部落差別の解消を主張した。部落民出身の彼は部落の人達が自主的に団結して風俗を矯正し,道徳を高め,教育を普及させ,経済的に豊かになり,社会的に認められるようになれば,差別は解消されると考えた。このような部落改善運動が部落の青少年の自覚を呼び起こし,第一次世界大戦後に展開する部落解放運動の素地となっていった。

皇国史観

国体史観とも言い,日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたと考え,天皇中心の国家体制を正当化しようとする国家主義的な歴史観である。これは,近世の水戸学および国学を基礎としている。つまり,「尊皇譲位,尊皇倒幕」の思想的源流となったものが底辺にあり,そのために明治政府で強い影響力を持った。 「古事記」「日本書紀」の記述を事実として記述し,神話と歴史を混同するだけでなく,大和朝廷の支配を美化し,日本歴史全体を通じて,天皇の絶対化と天皇家の消長を中心的事件と見なしている。日中戦争から太平洋戦争期に,国民統合と戦争動員に大きな役割を果たした。

皇国史観の基本的な主張は次の3点にまとめられる。

(1)日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅を奉じ,「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする,天皇の神性とその統治の正当性と永遠性の主張。

(2)日本国民は臣民として,古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え,国運の発展に努めてきた,とする主張。

(3)こうした国柄(「国体」)の精華は,日本だけにとどめておくのではなく,全世界にあまねく及ぼされなければならない,という主張。

戦後,皇国史観が否定されても江戸時代が民衆にとって暗黒の時代であったという見方は変わることがなかった。なぜなら,『菊と刀』を著したルース・ベネディクトに代表される社会学者の研究から,戦前の日本の社会体制と軍国主義は封建制度によって支えられていると主張されたからである。したがって,民主的な日本を建設するためには封建主義を払拭しなければならないという考えから,封建社会である江戸時代に対して,結果的に皇国史観と同じく民衆史観においても最も悪い時代であったと評価されたのである。

ルース・ベネディクト
1887〜1948 アメリカの女性文化人類学者。結婚後34歳にしてコロンビア大学でボアズに師事し,「文化人類学」を学ぶ。コロンビア大学人類学部教授として経歴を閉じた。1934年に『文化の型』を発表,文化を温厚で中庸を重んじる“アポロ型”と,競争的で偏執症的な“ディオニュソス型”の二つの対立項のうちでとらえた。前者の例がプエブロ=インディアンで,後者が北西インディアンとされる。1946年にそれまでの戦時研究の一環として,日本研究の成果である『菊と刀』を発表した。戦時中に,実際,日本を訪れることなしに,在米日本人や日本映画を通じて得た情報により書かれており,“恩”“義理”といったことばを手がかりに日本文化が分析されている。上記いずれの著作とも各国語に翻訳・出版され,広範囲な影響を与えている。

江戸時代が暗黒の時代とされていた時代風潮の中で「近世政治起源説」が生まれたのである。

雑誌『部落』3号に掲載された「部落の起源を衝く」という論文で「近世政治起源説」を最初に主張したのが,当時京都初音中学校の教員であった中村吉治氏である。
この論文で彼は,民主日本建設のためにはまず封建制度を乗り越えなければならない,そして封建制度においてこそ被差別部落は身分のくびきに縛りつけられたのだという,「近世政治起源説」の母型を主張した。これは,何らかの具体的な研究成果からではなく,三好と同様に近世暗黒史観に合わせる形での主張でしかない。

この中村論文の3年後,原田伴彦氏が「近世権力再編説」という「近世政治起源説」の1つの説を発表する。そして,東上高志氏(現部落問題研究所理事長)が原田説を支持し,中世起源説を全面否定する論文を書く。さらにそれを,上記した藤谷氏が後押しする論文を発表し,他の研究者がいくつかの事実を掘り起こして補強することで「近世政治起源説」が学説として定着していったというのが実際の過程である。


では,当時の前近代部落史研究の現状はどうであったかというと,当時の中心的な研究者であった林屋辰三郎氏は,『部落の歴史と解放運動』(1954)で,部落の起源は散所にあり,古代末期・中世起源の部落史像を展開している。これは,戦前に部落史研究をおこなった柳田國男,喜田貞吉らが古代から中世にかけて部落の起源を求める説を展開しており,これをベースに戦後の研究も進められていたからである。研究者の間では中世起源が主流であった。

柳田国男
1875〜1962(明治8〜昭和37)農政学者・民俗学者。兵庫県神崎郡福崎町に松岡操・たけの六男として生まれ,1901年(明治34),大審院判事柳田直平の養嗣子となる。歌人井上通泰は三兄,国語学者松岡静雄は次弟,日本画家松岡映丘は末弟。幼時,生父が時代に適応できず家が貧しかったことや,生母と兄嫁の争いに発した長兄の離婚のため1885年ごろに一家離散を経験したことが,生涯“家の永続”に心を砕く契機となった。1887年,茨城県北相馬郡利根町で医院を開いていた長兄松岡鼎に引き取られ,東西日本の農村民俗の違いを実感した意味は大きい。1890年,進学のため上京,三兄宅に居候するが,1891年,三兄の知己森鴎外の知遇を得,また桂園派歌人松浦萩坪のところに入門,田山花袋を知る。1893年,一高に入学,1895年には島崎藤村,1896年には国木田独歩と親交をもつとともに,「文学界」に新体詩などを発表する。その作品は,1879年,宮崎八百吉編『抒情詩』に収録されたが,同年藤村の『若菜集』が出たことで,自らの詩才に見切りをつけ,〈歌の別れ〉をするも,文学者との交際はなおしばらく続き,1901年,柳田家に入籍したころに,自邸で始めたサロン的集会がやがて自然主義作家を輩出する竜土会に発展したこと,1907年にイプセン会を主宰したことは日本文学史上も見逃せない。この間,1897年,東京帝大法科大学に入学,農政学を専攻,1900年,卒業と同時に農商務省に就職,産業組合・農会の普及を担当するが,当時の農政理論の主流たる小農保護政策の本質が,農村を低賃金労働者の供給源とすることにあるのを見抜き,農民を保護なしで自立できる中農に育成しなければ,農業は〈国の病〉になると主張し,上司と対立,1902年,法制局参事官に移される。形は栄転であるが,農政の現場から外されたことへの憤懣は1910年刊行の講演集『時代ト農政』に満ちている。1910年,内閣書記官記録課長を兼任,1914年,貴族院書記官長となるが,議長徳川家達と衝突,1919年,詰腹を切らされて官界を去り,1920年,東京朝日新聞社客員となる。1921年,国際連盟常設委任統治委員に就任,3期にわたってジュネーブで活躍ののち,1923年に辞意を表明する。1924年,東京朝日新聞社に論説委員として正式入社するが,1930年の引退までにものした389本の社説の2割近くが農政関連であるところに無署名ながら農政学者の面目とその民俗学の経世済民性の根源をみる思いがする。農政官僚として自らの考えを容れられずに挫折した前後,折から自然主義作家として評判を高めていたかつての文学青年仲間の花袋や藤村と〈一つ野原の畑を耕〉すことを拒否し,佐々木喜善から聞いた話を一字一句ゆるがせずに推敲・彫琢して『遠野物語』として上梓,日本列島先住民とみなした山人の存在に関心を示す。このあと新渡戸稲造と郷土会を組織したり,南方熊楠と交流をもったこと,「郷土研究」を創刊したことは民俗学への模索状況を示すが,1920年の〈最も自由なる旅行〉の所産『海南小記』『雪国の春』『秋風帖』には旅を学問の方法の主要な一つとしたその“ムラ”の把握の特徴が景観主義的限界とともによく現れている。1924年から“新しい学問”として民俗学の確立をめざし,「民族」を出すとともに,自ら農民史研究を推進するも,その性格もあって一時孤立するが,1935年,その還暦を記念して開かれた日本民俗学講習会を機会に民間伝承の会が結成され,〈ごく普通の百姓〉たる常民の学として民俗学を標榜する。以後,戦時中にかけて日本人の信仰,とくに祖先崇拝の解明につとめるが,敗戦後は民俗学を“現代科学”たらしめんとし,その実践の一環として国語・社会科の教科書編纂にかかわる。さらに晩年,日本人のルーツや稲作渡来のコースに関心を抱き,1961年刊行の『海上の道』で大胆な仮説を提示する。

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1-1 起源説

弊HPに掲載していた「私の部落史講座」を移行しておく。
長く中断しているが,いずれは執筆を再開して,自分なりの「部落史講座」として完結させたいと考えている。


1 「部落」の起源

部落の「起源」を問うことは,部落が差別される時期を明確にすることで,部落差別が生まれた原因を解明できると考えるからである。しかし,何をもって「差別」とするのか,民衆が「特定の人びと」に対して「特定の理由」によって差別し始めたときとするのか,「特定の人びと」を「差別する」制度をつくったときとするのか,それらによって「起源」は大きく違ってくる。
「特定の人びと」とはだれであるのか。「特定の理由」とは何か。また「差別」をどのように定義するのか。何を差別ととらえるのか。これらによっても「起源」は違ってくる。
そして,これらのことを考えるとき,必ずしも現代の差別の定義・規定が当てはまるとは限らない。当時の人びとの認識が重要となる。また,誰が差別したのかも重要な視点である。これにより,なぜ「それらの人びと」は「特定の人びと」を差別したのかも明らかになる。さらには,「慣習的・習俗的な差別」か「制度的な差別」なのかも考察すべき課題である。


『部落史用語辞典』を参考に「部落の起源説」をまとめておこう。

(1) 異人種起源説

部落民は朝鮮・中国など大陸から渡来した異人種の子孫であるとする説である。

「元来其種姓格別ナル者故,賤キ者ニシテ,団左衛門ノ支配ニスル」「穢多ノ類ニ火ヲ一ツニセヌト云事ハ,神国ノ風俗,是非ナシ」(荻生徂徠『政談』)

「穢多ハ元来外国ヨリ参リタル夷狄ノ種ニシテ,我天照太神官ノ御末ニテ無ユヘナリ,夷狄ハ禽獣同前ナルモノ」(海保青陵『善中談』)


荻生徂徠(1666-1728)
江戸中期の儒学者。名は双松(なべまつ)、字(あざな)は茂卿(しげのり)、通称は惣右衛門。徠は号。物部氏より出たので物(ぶつ)徂徠などと称する。初め朱子学を学んだが、のち古文辞学を唱え、古典主義に立って政治と文芸を重んずる儒学を説いた。柳沢吉保・徳川吉宗に重用された。著「弁道」「論語徴」「園随筆」「南留別志(なるべし)」「訳文筌蹄」など。

海保青陵(1755-1817)
江戸後期の思想家。名は皐鶴(こうかく)。諸国を巡歴し、晩年京都に私塾を開く。商業経済の発展という動向に立脚して現実的な経済論を展開。著「稽古談」など。

穢多等の被差別民を異人種とする説は,江戸期の学者が唱える以前,古くから人々に言い伝えられてきたと考えられている。
ここで重要なことは,差別の理由と正当化を「異人種」に求めていることである。これは鎖国時代の日本にあって,朝鮮・中国を「下種」の考えていたことによる。 

@ 渡来人子孫説

古代社会における渡来人の子孫が部落民となったとする説である。

古代社会において日本は,中国・朝鮮から多くの技術や文化を学んでいる。稲作などの農耕,青銅器・鉄器や陶磁器などの製作技術,用水路などの土木技術,文字や儒学・仏教などの文化である。渡来人の多くが朝廷の部民となり重く用いられ,天皇家や貴族と通婚がみられることから,賤視されたとは考えられない。

A 古代賤民起源説

古代賤民の系譜を引く者が近世賤民となったとする説である。

古代の身分制である「良・賤」で,良に属して公民との通婚が認められていたが一般の公民より低くみられていた「品部」「雑戸」を源流とする考えである。品部・雑戸は宮廷の手工業に従事しており,渡来人が多かったことからも考えられた。
また雑戸の鷹戸には鷹の生餌を捕る餌取の仕事があったので,えた→餌取→雑戸→渡来人→異人種という連想から系譜が考えられたのである。しかし,宮廷工房は世襲制は早くに崩れ,工房内での技術伝習によって受け継がれていた。
また鷹戸は品部であって雑戸ではなく,餌取は近世では部落民ではないこと,律令体制の崩壊や「奴婢停止令」が出されたことなどから,古代身分が近世まで直流しているとは考えられない。

B 戦争捕虜子孫説

部落の源流を蝦夷またはアイヌの捕虜とする説と神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の捕虜とする説である。

前者は,江戸時代後期の蘭学者帆足万里が『東潜夫論』に,穢多は日本武尊が蝦夷征伐をしたときの捕虜の子孫であると記してある。
後者は,シーボルトが『江戸参府紀行』に,部落は一般住民と隔離断絶させられ,非常に低い一種独特の階級で,おそらくその昔隣国朝鮮と戦った時の捕虜の子孫であろうと記している。また,慶応末年,摂津西成郡渡辺村(役人村)に対して幕府が御用金を課したとき,渡辺村ではその交換条件として賤称廃止を歎願した書に,自分らの祖先がかつて神功皇后の朝鮮征伐に従事した際,朝鮮の地における一般の風習として嗜んだ肉食を帰陣後も続けたことが,神国清浄の地に合わないとして朝勤を禁ぜられ,非浄人とされて,不浄な御用勤めを命じられ,人間としての交わりを許されなくなったことなどを訴えている。

帆足万里(1778-1852)
江戸後期の儒者・理学者。字(あざな)は鵬卿、号は愚亭。豊後日出(ひじ)藩家老の家に生まれる。郷土の先覚三浦梅園の条理学を基礎とし、物理学を中心に自然科学を研究。藩校教授、のち家老となり藩政を改革。著「窮理通」「東潜夫論」「医学啓蒙」など

シーボルト(1796-1866)
ドイツの医者・博物学者。1823年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。28年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。

これらの説は,近世中期の儒学による身分制強化策,国学の日本中心主義思潮や近世末期の攘夷思想の高揚のなかで作り出されたものと考えられている。逆に考えれば,部落民(被差別民・被差別身分)の生活向上や身分解放の動きがあり,それに対する既存体制を維持しようとする動きがこのような説を作り出したと考えることができる。
つまり,身分制強化を正当化するために考え出された説であると理解する方が自然だと思う。すなわち,部落民の動きへの警戒と,彼は異人種の者であって,一般民衆から蔑視・賤視されるのは当然であるとして,封建的身分制度を存続させようとするために作り出された説と言える。


(2) 宗教起源説

仏教や神道の教義などにより部落差別が成立したとする説である。  

仏教には殺生戒などがあり,生物を殺すことを戒め,肉食を嫌っている。神道では不浄を嫌い死や血の穢れを忌むとしている。これらにより,死牛馬処理・皮革・屠殺などたずさわる人々への賤視が部落差別が生み出したという考えである。
確かに,室町中期以降には教団内部や教義に差別観を強調する例もみられ,また近世社会では身分差別を強化し,教団内部にも差別的体質が強化されている。しかし,この説では武士や漁師・猟師などが殺生による差別を受けてない事実を説明することができない。


(3) 職業起源説

殺生などをなどを行い,死・血の穢れに触れる職業に就いたことによって差別され,部落が成立したとする説である。

古代末から中世には,触穢思想によって職業に対する差別観念があった。律令体制下での鷹や雞の餌をとる鷹戸の業種がのちに民間に移り,牛馬の肉から鷹・雞の餌をとる業域に拡大され,この業種を営む者は賤民であると評されるようになった。
また「夙」という近世の賤民も古代の「陵戸」のなまった「守戸」からきたもので,守戸は天皇・皇族の陵墓の維持・管理にあたる賤民(「五色の賤」の最上位)であり,このことから墓守の仕事に賤視観が生まれたといわれている。

喜田貞吉は,屠殺などの職業が中世以来嫌忌されるようになり,それに従事した者が賤民にされたと考えた。

喜田貞吉(1871-1939)
歴史学者。徳島県生まれ。帝国大学文科大学卒。古代史・民俗学・考古学の研究に従事し、雑誌「歴史地理」を発行。また、法隆寺再建論を主張。

しかし,政治起源説の立場からは次のように否定されている。

中世社会の賤民層の者をみると,非農民で支配者や社寺などで使役される種々雑多な雑業をもつ人々のなかに「穢多」といわれる者があり,その中で特に皮革業をおこなう集団が城下町の一部に居住させられ身分も固定させられたのであるから,源流からみると,賤民身分の者がまずあって,それに職業があとから付いたという批判である。
つまり,近世の幕藩体制が整備されていくなかで,身分・職業が固定化していったものであり,職業が身分を決定したのではないという考えである。


(4) 政治起源説 

近世において支配者側の行政意図に基づき,身分・職業・居住を固定化し世襲化させたという説である。

@ 16世紀末から17世紀初頭成立説

中世末・戦国期における「きよめ」などの存在に注目し,それと近世皮多部落の成立を関連づけてみる説である。 

この時期は,太閤検地が行われて中世の荘園制が一掃され,一地一作の原則が全国的に確立した。また,検地帳に登録されることで耕地の所有を認められる代わりに耕作者・貢租負担者として,その村に緊縛されることになった。検地帳には,名請人の肩書として中世の賤民称を示す「かわた」「さくい」などの記載があり,また「かわた」の屋敷は「かわた分」として一括登録されている例があることから,身分・職業・居住地が把握された身分制に部落民として規制されたとする考えである。
秀吉による刀狩や身分統制令によって兵農分離がおこなわれ,新しい身分制がつくられたとし,そこに根拠を求めている。

A 寛永期から元禄期成立説

太閤検地などにみられる「かわた」身分の成立は,社会的分業が成立していく過程であって,皮革生産の権力的集中を示すものであり,賤民身分制を確立していく前提をつくったと考え,「かわた」から「穢多」への転換が行われ,断罪などの役儀の強制などとともに幕藩制的賤民身分として「穢多」身分が固定化された時期を成立とする説である。  

B 17世紀後半,寛文・延宝期成立説

部落成立の主要な指標を「地域的差別の編成」という事実に求め,太閤検地帳記載の「かわた」や「さいく」は必ずしも居住地を明確にしていないと考え,寛文・延宝期の新しい検地により「かわた」や「さくい」の居住地が劣悪な土地に移されていくことや,検地帳や年貢免状(徴税令書的なもの)などの別帳・別免などの事実から,この時期に成立したとする説である。 

C 17世紀末から18世紀初頭成立説

部落は近世幕藩権力が人民を分裂支配するために政治的に設定したものであり(藤谷俊雄『部落問題の歴史的研究』部落問題研究所),非人身分の設定と関連して穢多身分もこの時期の成立である(後藤陽一「近世の身分制と社会」岩波講座『日本歴史』九)とする説である。
この説では,近世初頭の「かわた」はかなりの土地を保有しており,後の「穢多」とは同一のものではないと考え,また非人身分は寛文・延宝から元禄の時期(1661〜1703)に固有の賤民身分として設定されていると考えている。したがって,「かわた」身分の賤民化も支配者の権力的措置として行われたものである以上,非人身分の場合と同時期であったと推定している。


上記の起源に関する諸説であるが,『部落史用語辞典』を元にまとめている。ということは,これら諸説に対する批判も担当執筆者である小林茂氏の立場である「近世政治起源説」からの批判ということになる。
小林氏は自分の立場を「政治起源説」の「A 寛永期から元禄期成立説」とされているので,その立場から諸説を論じられ批判されているわけである。ということは,「近世政治起源説」以外の(批判する)立場に立てば,小林氏の批判が必ずしも正しいとは言えなくなる。

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2012年05月13日

近代社会と部落問題

黒川みどり氏の講演録『つくりかえられる徴−近代社会と部落差別−』をもとに,近代社会における部落差別の特質と変容について整理してみたい。


1 「解放令」前後

黒川氏が使用する「徴」という概念とは何か。黒川氏は,【「徴」は差別する側が自己を不問にして,「他者」に特徴を見いだし,差別のために作り出すもの】であるという。つまり,差別をするための「根拠」「理由」を「徴」と表現している。それはまた,差別する側と差別される側との「ちがい」であり「線引き」「区別」でもある。
「徴」は差別する側が創出するものであり,差別される側に一切関係ないことは当然である。「徴」は,「同じである」ものに「ちがい」をつけたいと思う側が創り出すものであって,「ちがい」が明確な場合には「徴」を創り出す必要もない。つまり,「徴」の不合理性と不当性を明らかにすることは,「ちがい」がないことの証明であり,差別の根拠や理由を否定することになる。
人権の発達史あるいは差別克服の歴史とは,「徴」すなわち差別の根拠を否定し続ける歴史であると考えられる。それゆえ,黒川氏は「徴」は「つくりかえられる」ものであり,差別する側によって「つくりかえられて」きたというのである。差別の否定と克服がなされなければ,「徴」が「つくりかえられる」必要はないからである。

江戸時代,身分という「徴」はつくりかえられることはなかった。明治まで身分制制度が消滅しなかったからである。身分という「徴」に新たな差別の根拠が付加されたり強化されたりすることはあった。「徴」そのものを正当化するために新しい「徴」が付け加えられることもあった。差異を探し出したり,差異を価値付けたり,恣意的な意味を付与したりすることもあった。しかし,身分に代わる「徴」は必要がなかった。

差別は,差別する側の一方的な「基準」によって,差別される側に「ちがい」をラベリングすることである。それが「徴」である。
差別に対立する「反差別」は,「徴」の不当性と不合理性を明らかにすること,すなわち「差別の論理」を否定することである。差別の目的は「排除」であり,「排除」の正当性のために「根拠」を必要とし,その根拠を具現化したものが「徴」である。

江戸時代は,封建的身分制度の時代である。「身分」という「生まれながらの線引き」によって「賤民身分であるか否かという区別」がなされていた。しかし,「解放令」によって「身分という線引き」が廃止されたにもかかわらず,今日に至るまで社会の側がそういう区別,線引きをすることによって差別してきたのはなぜか。黒川氏は,その要因を次のように言う。

…一つには,封建的な身分差別からの連続面があるということ。…差別する側は何を基準にもって,部落差別をしているかというと,その人の祖先が江戸時代の賤民身分,多くは穢多身分ですけれども,穢多身分であったかどうかということによって,差別するわけですね。
…典型的には「穢れ」ということで示されますように,その江戸時代までの穢多身分を中心にまとわりついていた,いわゆる種姓観念,その穢れた存在である賤しいといった,そういう観念というものが一定程度引き継がれているということ,しかし,ではその封建的な身分差別の残滓,残存ということだけで,今の部落差別を説明できるかというと,それは決して必ずしもそうではないだろうと思うわけです。
…社会は非常に大きく変化してきたわけです。そのような社会が大きく変化する中で,部落差別のありようだけが変化せずに留まっているということは,おそらく常識的に考えてもあり得ないわけで,当然その部落問題をめぐる社会の眼差しや,その問題のありようというものも大きく変化してきたはずです。
…そのような変化の中で140年近く経過して部落差別がなお存在してきたということは,やはり社会の側が江戸時代までの身分差別というものが過去に存在している地域,あるいはそのこに居住している人々に対して,また差別のための新たな「徴」をつくってきた,与えてきたというふうに考えるのが自然だろうと思います。
…ある時期に差別のためにつくられた徴というものが,社会の変化の中で薄れたり,あるいは消えていくものもあるでしょうし,ずっと残り続ける徴もあるだろうと思います。

では,明治から現代に至るまで,どのように「徴」が変容してきたか,薄れたり消えたり,新たに創り出されたりしてきたか,黒川氏の説明によって見ていきたいと思う。


黒川氏は「解放令」を出すに至った経緯を次のように考える。

…四民平等の一環である。…「一君万民」天皇のもとにすべての民は平等であるという,一応近代国家が持っている普遍的な理念,建前に矛盾しないように,「一君万民」理念の創出がなされ,その一環として出されたということがまず一つです。それから二つ目には「開明性」です。明治政府は欧米に負けない,欧米に肩を並べる開明的な政府,国家なんだということを,内外に誇示していく必要があったということです。
…条約改正を実現するためにも,新しくできた明治政府というのは開明的な政策を打ち出す国家なんだということをアピールしていく必要があった。
…封建的な古い身分制度,身分差別というものも廃止するんだと,そういう理念の一環として出されたということが二つ目です。

「解放令」が出たことによって,身分という「生まれながらの線引き」がなくなった。しかし,その差別を維持したい者にとっては,生まれながらの線引きがある方が安泰である。たとえば,江戸時代のように賤民身分がある時代は,賤民に生まれなかった者は生涯賤民となることはないからである。そこで,差別する側は,生まれながらの身分に代わる線引きを探し求めるようになる。呼称もその延長上にあると考えることができる。

「解放令」というのは賤民に対する呼称を一切廃止したわけですね。一切区別しないわけですから,呼称も必要がないわけです。しかし,差別したい側は,かつて穢多だったという集団を差別したい,ということはその集団に属する人を区別するわけですから,何らかの言葉で呼ばないと区別できないですよね。そのために差別する側が勝手につくりだした言葉が「新平民」なんですね。

他にどんな言葉が乱立したかというと,「旧穢多」とか「元穢多」とか,または新たに平民になったので「新平民」とか,勝手に略して「新平」とか言ったわけです。明治政府が「新平」という呼称を生み出したのではなく,四民平等によって(先に)平民となった「江戸時代の賤民身分」以外の者によって,解放令によって(後から)平民となった者に対して,その違いと区別のために作られた「徴」としての呼称である。
その前提となったものは,江戸時代の身分意識である。明治時代となり四民平等となっても,江戸時代の身分社会を生きてきた者にとっては,すぐに新しい社会観や人間観となることはできない。明治になっても人々の感覚や社会通念は江戸時代のままであり,特に身分意識はすぐに変わるものではない。

それゆえ,「解放令」によって穢多身分など賤民身分の人々が自分たちと同じ「平民」となったことは,同じ「身分」になったように受けとめたのである。
「ちがう」身分の者が「同じ」平民になった。このことを受け入れることができないから,同じ平民でも「ちがう」のだということを明確にするために「新平民」という呼称を作り出したのである。「ちがう」と思っている者(差別する側)にとって,身分という「徴」がなくなったから,「ちがい」(差別)の根拠として新しい「徴」が必要になったのである。
「ちがい」を必要としない者=差別しない者にとって「徴」は無用なのである。


当時の一般民衆及び社会の部落民に対する認識が「徴」になっていく。

どんな理由でもって被差別部落の人々を排除するかというと,あの人達は血筋が違うからというふうなことをしばしば言います。あるいは被差別部落の人と結婚すると一族の血が穢れるとか,あるいは家柄が違うとかいうふうな言い方。…でもやっぱりあの人達は「なにかしら違う」,答えに窮した時に出てくるのがそういう表現であったりするわけです。これは何かというと,露骨に人種が違うとか民族が違うとかは言わない。それは違わないんだと頭ではわかっているけども,血筋,穢れ,何かしら違う,ここに合意されているのは,生まれながらにして自分達とは何かしら違う集団なんだという。生まれながらの線引きの延長上にあるのではないかと思うのです。血筋,家柄も本人の努力では変えられません。生まれながらの徴でもって排除しようとする…部落問題の底流に生き続けているのではないか…

取るに足らぬ些細なことであろうが,曖昧な根拠,非科学的なことであろうと,それが「徴」となる。差別するための「ちがい」となるのであれば「徴」は何でもよいのである。迷信であろうと妄信であろうとデマであろうと…。
たとえば,夜になると蛇のように身体が冷たくなる(『橋のない川』)とか,皮膚の色や容貌がちがう(『破戒』)とかのような生物学的なちがいから,藤井乾介や鳥居龍蔵の主張のような人類学的なちがい,さらには貧困,病気など生活習慣や環境に起因する二次的な問題までもが「徴」となっていく。

「同じ」になりたくないから「ちがい」を明らかにさせる必要がある。「ちがい」が曖昧になればなるほど,より明確な「ちがい」の「徴」を探そうとし,その「徴」を強固にするために排除・排斥をおこなって「線引き」を明らかにしようとする。解放令反対一揆はその顕著な例である。なぜ民衆は,そこまで排除・差別をし続けたのだろうか。この答えが「今なぜ部落差別があるのか」という答えにもつながる。
黒川氏は,次のように述べている。

…そういう(明治維新による社会変化)の中で自分達の生活は一向によくならないのに,被差別部落の人達だけが「解放令」が出されたことによって,身分を浮上させていい目をしているというふうに,民衆の目には映りました。しかも「解放令」が出たことによって,もう生まれながらによる身分の線引きはなくなったわけです。
そして,部落の人達の中にも経済力を蓄えて,部落外の人達と同等にまで肩を並べんとする人達もいるわけです。身分というものがなくなってしまえば,あとはもっぱら自分達の経済力なり努力なり能力といったものによって序列がつけられてしまうわけで,そうであるが故に,これまで絶対的に下にいたはずの賤民身分の人達が自分達と肩を並べる,そして自分達をも乗り越えていくかもしれないという恐怖感が,この時期そういう排除・差別となって強い形で表現されたのでした。


2 部落改善運動から水平社

極端なデフレ政策により農産物価格が暴落して,わずかな土地しか持たない農民は,土地を手放して小作人に転落していきました。そういう土地を余裕のある地主が集積して,大きな地主として成長していって,いわゆる寄生地主制というものがだんだんと出来あがっていく,そのきっかけになったのが松方デフレです。小作人は小作料を支払えなくなって,農村にはいられなくなって,都市へ出て行く,そして下層労働者になっていって,この頃から都市スラムというものがだんだん拡大していくという状況が出来あがっていきました。
そういう中で,もともと経済的基盤の不安定であった。農村にあっても土地を持っていない,農業をしていない人々の多い被差別部落ですね,藁細工で履物をつくったりと非常に不安定な仕事に従事している場合が少なくない,そういう被差別部落もこれで大きな打撃を受けまして,被差別部落の貧困ということが,松方デフレ以後,クローズアップされていくことになったと思います。
貧困であるが故に出てくる二次的な問題,不潔とか病気の温床。あの人達は衛生観念がないんだとか,そういうレッテルを差別する側は貼ります…

「貧困」という「徴」は,黒川氏が述べるように明治以後の近代社会の中で被差別部落に与えられた「徴」である。
ここで大切な視点は,相対的な価値基準である。江戸時代の被差別身分には固有の生産手段(皮革業や,治安維持等の役負担による収入など)による経済力があったため,必ずしも「貧困」は,差異としての「徴」にならなかった。(身分という「徴」が強固であったからだが)しかし,近代資本主義社会となった明治では,経済力・生活力の格差である貧困が差異の基準となっていった。つまり,経済力のある層と貧しい層,貧富という相対的な価値基準が「徴」となっていったのである。

「貧困」が生み出す二次的な問題である「不潔」「衛生観念」も相対的な価値基準である。江戸時代の民衆が毎日お風呂に入っていたわけではなく,行水や身体を拭くとかであった。経済力の上昇とともに,また欧米の生活習慣や衛生観念が入ってきたことにより,入浴や洗髪という生活習慣が民衆に浸透していく中で,貧困のために風呂に入ることがなかなかできなかったり(風呂屋からの入湯拒否もあるが),清潔な衣服を着ることができなかったりした被差別部落に対して,新たな「徴」として「不潔」「汚い」「衛生観念がない」が付加されていったのである。これもまた,全体の衛生レベルの上昇に相対しての不潔・不衛生なのである。

…不潔な地域として,部落には殊のほか,警戒の目が注がれました。部落の近辺でコレラが発生すると,部落は危ないということで,部落のまわりの溝の掃除を徹底せよとか,あるいはたまたま被差別部落に患者が発生することがあると,被差別部落との交通を遮断せよという指令を行政が出したりして,そこは差別意識とないまぜになって,部落に対して特に警戒の目が張り巡らされていきました。
…コレラなどを媒介としながら不潔,病気の温床という徴が与えられていきました。

コレラの後も,病気ということでトラホームも被差別部落と結びつけられて,「徴」が強化されていった。トラホームの罹患率が高く,治癒率が低い地域は部落であるというように,貧困の二次的な問題である病気さえもが被差別部落の「徴」とされていったのである。


…その部落改善政策を通じて,非常に皮肉なことですけれども,異種という認識が広く民衆レベルに広まり,また,その認識とセットになった「特殊部落」という呼称が広く使われるようになっていったと考えています。
…被差別部落の存在が,国民統合を進めていく上でネックになる,放置しておくと障害になるから,それを是正しなければいけないということで,国民統合の観点から部落改善政策が行われることになったわけです。
…部落改善政策が行われる中で,いっそう被差別部落を特殊視するという認識が広まっていったということだと思うのです。ですから,「同じ」になることを強要することはかえって差異を際立たせ,その際立った差異というものをバネにして,ますます排除,差別を強めていくということが,この場合にも言えるのではないかと思います。

1908年,政府によって地方改良運動と呼ばれる全国的な国民統合政策が実施されていった。これは,日露戦争後,弛緩した農村をもう一度引き締めようというもので,増税など国家への不満が社会主義や犯罪に走らせず国家への忠誠をはかるというねらいだった。具体的には,税の滞納防止,就学督励,風紀の改善,衛生状態の改善などであり,それらを貫徹するために町村間で競わせ表彰したのである。この結果,部落を抱えた町村ではなかなか目標を達成できないという問題が生じてきた。そこで,部落改善運動が始められることになったのである。

その結果,部落と部落外の格差がより明確にされ,さらに従来からの差異・差別の「徴」がより確定されていったのである。部落は「特種」である。部落は起源が違う。民族が違う。性質が違う。さまざまな理由が「徴」となり,人々の認識として受けとめられていったのである。

異種とする根拠は朝鮮人起源説が主流だったと思います。朝鮮人起源説は,まさにこの時期,日本は1910年朝鮮を植民地にしていくわけで,日清戦争以後,そして日露戦争を経て,朝鮮に対する蔑視感がいっそう民衆レベルに強まっていった時です。そういう蔑視の対象である朝鮮人と被差別部落を結びつけていったわけですね。

さまざまな「徴」が新たにつくられ,新たに付与されて,民衆の差別意識・賤視観を強固にしていくのである。「同化」の強要が「異化」を際立たせていったのである。一方で「同化」を強要し,他方で「異化」を認識するが故に排除・差別していくようになるのである。

「同化」の強要の前提となっている立場は,部落責任論である。部落の側に原因があるという考えである。それゆえの「特殊視」であり,「特殊部落」という部落認識なのである。


大正デモクラシー,民主主義の風潮が社会を席巻していく中で,被差別部落の問題をめぐって認識も変化してくる。被差別部落の側からの部落責任論に対する批判,部落改善運動への批判である。つまり,部落の側だけでなく社会の側の責任も問うという方向への転換である。これが,1910年代から20年代初めにかけての融和運動である。

しかし,やはり同情も非常に欺瞞的だと,それは御免だということで,被差別部落の人達は部落改善,同情融和をも克服する道を模索していきました。そして,自分達が「自覚」を持つしかないんだ,さらには自分達が差別の徴を与えられてきたけれども,そういうものをも「誇り」に転化して,あるいは「穢多」として,「特殊部落」として投げかけられてきた,そういう言葉をも逆手にとって,等身大のありのままの自分達の姿に誇りをもって,差別の不当性を社会に訴えていかなければいけないんだ,ということでさまざまな模索を経て立ちあげていったのが,全国水平社でした。

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「解放令」から考える -身分差別と部落差別の分岐-

1「差別」とは何か … 被差別民はどのように認識されていたか
(1) 「解放令」の波紋

   ○「解放令」伝達に関する史料
【…今上帝の叡慮を以て穢多の種別を御免ありし上は,此度伊勢の御宮に詣でんも御札をわが家に祭らんも苦しからぬ事なれば,最早何をか忌み何をか嫌うへき,又非人という人でなしといへる文字也,其始まりはさだかならねど常に食を人に乞ひ人たる自立の働きなかりし故,かくは名付けて種族の別れしなるべけれども,或は人に雇はれ或は草履雪駄など造り出して,おのれおのれが力に食まんには是又賤しむべきにあらず,縦令四肢百体はいときよく具はりたりとも,源平なり藤橘なり其姓氏は正しくとも,人の人たる道を勤めず親に不孝にしてふくろうの行ひあり,人を害ひ傷ついて豹乱にして禽獣の行ひあらんには,是をこそ人に非ずとも穢れ多しともいうべけれ,されば人の人たる道を尽すを以て尊しとし否らざるを賤しとすべき事にて,同じ万物の霊たる人間中に別に賤しみ嫌べき種族はなき筈なれば,此より後は彼此の差別を立ず共に人たちの道を尽して,朝廷深き御趣意のありがたさに報ひ奉るべき事にこそ。】

(『松山藩布告留』)

【穢多非人の称被廃,平民籍編入費仰付上は旧来穢多之風習を相改め,人民一般の礼譲に基くへき筈に候。然るに其風習を改めずして直ちに平民に上りたる心得を以て市中を横行し,動もすれば喧嘩口論等に及び候趣却て人民一般の礼儀を相弁へず,徒に平民と成りたる意地を構へ候儀,以の外の事に候。若此儘にて折角朝廷の御趣意,人民一般公平の御処置に戻り候様可相成,仍て其人民一般の礼儀に基き,心を清め形を潔するの大旨を示すこと,左の如し。
一,穢多の称,元来不浄を取扱ふを職業とし,人民一般信仰すべき神仏をも拝する事能はず,民中の度外にあり,是其年久しく汚業をなす風習に安んじ平民と火を同じくせざるものにして,今俄に平民の籍に入るとも従来の平民に忌み嫌はるるは固より自然の事なり。依て旧来の風習を改め,汚穢を去り心身を浄潔し,然る後に平民同様神仏へも参詣し一般の交際をなすべし,此次第を弁へずして猥に平民と交際せんとするは,却て穢多の称を免かれざるべし。…】

(『高知藩諭告』)

上記の史料は,「解放令」が明治政府より各藩に伝達された後,各藩が布達するに際し,民衆の混乱を予測して「解放令」の付書(解説書)として作成して配布したものである。この史料から,当時の人々や社会が被差別民をどのように認識していたかということ,被差別民を平民と同様にすることがどれほど民衆を混乱させることになる政策であったかということが推測できる。
しかし,これらの史料は被差別民を民衆がどう見ていたかであって,賤視を歴史的に肯定する内容となっている。差別を受けるのは,被差別民に問題があるという論理であり,天皇や朝廷の「御趣意」によって「平民」にしてもらえたのだから,旧来の悪しき風習を改めて生活するように諭している。同様の論理で,民衆に対して「解放令」の趣旨を受け入れるように説いている。


(2) 「差別」の認識 … 被差別民は「差別」をどのように認識していたか

これに対して,下記の史料は,被差別民自身がどのように差別を受けてきたか,どのような差別を受けてきたかを述べたものである。自分たちが受けてきた仕打ちや扱いから「差別とは何か」を見抜いている。

   ○「復権同盟結合規則」
【新平民ナル私共儀,往古ヨリ世ニ穢多ト称セラレ,人界外ニ擯斥セラレ,四民ト雑居スル能ハス,同等ノ交際ヲ為ス能ハス,事ヲ共ニスル能ハス,四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エサル所ノ事ヲノミ為スヲ以テ恒識トシ,人畜ノ間ニ占居罷在候イシカ,辱クモ王政復古・開明進歩ノ秋ニ遭遇シ,初テ四民同等ノ権利ヲ復スルノ自由ヲ与エラレタリト雖モ…】
【…世ニ人外視セラレテ,而テ別ニ異界ヲナシ,世ノ最モ穢ハシトスル所ノ業ニノミ従事スルヲ以テ,我曹ノ当務トセシ事,…】

ここで表現されている「人界外」「人外視」という言葉,さらには「人畜ノ間ニ占居」という言葉から,被差別民が「人間」の内に含まれず,「人間として扱われなかった」ことがわかる。石瀧豊美氏はこの部分について,同じ「人間」なのに,人間扱いされないというところに,差別される側の「辛さ」「悲しさ」があり,「人畜の間」(人間と動物の間の存在)と見なされるところに,差別の「厳しさ」があると述べている。

差別は,「上下の差別」ではない。見下し・蔑むものでもない。「排除・排斥」である。しかも同じ人間を排除するのではなく,人間と認識していないから「人間扱いしない」ことは当然であり,その対応も「畜生(動物)」と同じになる。そう考えれば,「雑居しない」「同等の交際をしない」ことは当たり前である。そのように認識している被差別民が自分たちと同じ「平民」となり,同等の付き合いをしなければならなくなる。そう理解すれば,民衆の戸惑いと嫌悪感は想像するに難しくない。


(3) 被差別民にとっての「平等」と何か … 「平人化」行動の意味
被差別民にとっての「平等」は,「平人と同じことをすること」「平人と同じ扱いを受けること」であった。「平人」の側に入ること,「平人」になることが彼らの目指した「平等」であった。江戸時代には身分制の下,法制度によって差別的制約が課せられ,身分によって生活が差別化されていた。着衣や髪型などの容姿,住居の場所,本村の年中行事への参加制限など生活一般に差別化があり,強化されていった。「社会外の存在」「人外の存在」と位置づけられた被差別民であることから,彼らの目指す「平人化」は「社会内の存在」「同じ人間とみなされる」ことであり,このことが彼らにとって「平等となること」であった。

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部落差別とは何か −米田庄太郎の受けた差別から−

奈良県立同和問題関係史料センター刊『米田庄太郎 −人と思想−』に,米田氏の生涯の師であるアイザック・ドーマンの回想録『A MISSIONNARY'S LIFE THE LAND OF THE GODS』(神々の国における一宣教師の生活)からドーマンが米田氏との出会いについて書いた一文が記載されている。

…他の生徒が彼とつきあおうとしないことに私は気がついた。実際彼は120人の生徒のなかで一人排斥されていた。…私は英語の教師のところにいき彼が孤立している理由をたずねた。彼はエタであるということだった。「エタとはどういう意味だ?」彼の返答は「エタとは新平民のことです」であった。「その新平民というのは何だ?」私がいささか乱暴に聞くと,「新平民とはエタのことです」と素直な答えが返ってきた。私はいらいらしてその教師に辞書を持ってくるようにいった。
「エタ」というのは「パーリア」「最下層民」のことだと書いてあった。これは私にとって驚きであった。仏教の存在理由はバラモンをはじめとするインドのカースト制を廃止するためのものであったはずなのに,現在,仏教の色合いの濃いこの国でカースト制が持ちこたえているどころか,助長されているのである。私の人生でこの可愛い最下層民の少年に接したときほど心の奥底がえぐられる思いをしたことがなかった。私は思った。
「もしもキリスト教の力でこの少年を物心両面においてこの環境から救い出し,育て上げ,立派なクリスチャンにすることができなければキリスト教は日本にとって何の役にも立たない」と。私は彼を家に招待して彼を子供たちに紹介した。彼は生徒のなかで最も博学だった。彼は古代宗教に関する私の講義を日本語に翻訳したが,彼の翻訳は日本の文学界も高い評価を得ている。(後略)

私の目的は米田庄太郎氏の優秀さや優れた業績,彼の生涯を述べることではない。ドーマンの視線から,明治20年代(1888〜1895年)当時の被差別部落に対する社会意識・社会認知を考察することである。同書に,埼玉県川越を旅行した際に見聞した部落差別の様子を次のように記録している。

…ここで日本のエタ身分について触れておきたい。その数を正確に把握するのは難しいが200万人はくだらないと思われる。エタは全国に散在している。エタの起源についてはこれまでのところ十分な説明がなされていない。ある者は,紀元前に日本に連れてこられた朝鮮人捕虜の子孫だという。またある者はアイヌ(原住民)と初期の日本人,すなわち大陸からの渡来人との混血だという。この説の方が説得力はある。近年の改革以前は,彼らはいっさいの権利を持たず,全く保障されていなかった。エタを文字で表すと「穢れが多い」と書く。今から述べる話が,封建時代のエタの身分をよく説明していると思われる。1896年と1897年の2年間私は群馬と埼玉の2県の教会を担当した。埼玉県川越の近くに山城という村がある。この村にいつも川越の礼拝に出ている教徒が二人いた。ある時,村に礼拝に来てくれないかということになった。私は引き受けることにして,川越の職員にこの村まではどのくらい距離があるかと尋ねた。彼はたった二里(約5マイル)だと答えた。私は少々運動不足であったので歩いていけるかと尋ねた。承諾して我々は二里の道を歩きはじめた。かなり足早に2時間ほど歩いたところで私は尋ねた。「ところで,山城村はいったいどのあたりだ」「それは」と彼は答えた。「この村でちょうど川越と山城の真ん中になります」「何だ?」と私はびっくりして答えた。「もう2時間も歩いているのだから,二里ぐらい歩いたにちがいない」すると,彼は大笑いしていった。
「先生がこれまで体験されたことがないようなことをこれからお話しします。今我々が通って来た村はエタ村で,日本で唯一,街道の通っているエタ村です。他のエタ村はみな,道を通った人が穢れないように,国道から離れたところにあります。さて,村のなかを走っている道の,村の両側一里ずつは,穢れを避けるために本道の距離に入っていないのです。ですから,川越と山城の間は実際四里あるのですが,二里と数えるのですよ」
一人の人間が,同じ人間を軽蔑し憎もうとしたら,その行動がどれほどの不合理なものになるか,その人間には想像できないだろう。私はその後も世界中をまわったけれど,これほどの話は見たことも聞いたこともない。だから書いておく値打ちがあると思う。

ドーマンは,1857年にペルシャ国ウルミエ(現イラン)に生まれ,のちにアメリカに渡り進学校で学んで牧師となった。その後,日本伝道にたずさわることになり,明治21(1888)年に奈良に着任し,布教活動とともに英和学校の校舎新築などに尽力した。

ドーマンの体験談からわかることは,明治20年代の日本における被差別部落に対する周囲の認識と視線(差別観と賤視観)である。
まず米田少年に対して他の生徒が「つきあおうとしないこと」により,彼が「孤立」している。その理由は,彼が「エタ」であり「新平民」であるからだという。明治20年は,解放令から十数年しか過ぎておらず,ほとんどの人間は,幕末期とはいえ江戸時代に生まれ,江戸時代の社会通念・道徳規範・価値観・身分観を身につけて育ってきていると言えるだろう。
明治維新・文明開化という新しい風潮を受けながらも,なお江戸時代の社会通念・価値観は強く残されていたと思う。つまり,米田少年に対する他の生徒の対応は,江戸時代の差別観・差別的対応であったと言える。その理由を「エタ」であり「新平民」であると述べていることは,自分たちとは「ちがう存在」であることを意味している。
【エタを文字で表すと「穢れが多い」と書く】であるが,これも誰かから聞いたのであろう。明治20年代にはこのような解釈がなされていたということは,江戸時代よりの解釈と理解していいだろう。

ドーマンの川越での体験は「里数改訂の問題」である。同様の話は他県にも残されている。
明治2年,福知山藩では,議員の中野齋が「里数改訂の議案」を提案し圧倒的多数(賛成172/198人中)で可決されている。高知県にも同様の伝承がある。


差別をどのように認識するかで諸説がわかれるが,私は,差別とは「分け隔てること」だと考えている。その究極が,まったく「同じ人間」であることは当然でありながらも,なお「同じ人間」と見なさないこと,自分たちの社会(世界)と別の社会の存在と認識していることだ。<社会外の社会>の存在と見なされ,「同じ人間」であるにもかかわらず<人外(人間外)>の存在と見なされることが究極の<差別>であると考えている。たとえば,「いじめ」における<シカト(無視)>がそうである。かつて,ある生徒が「同じ空間と時間にいるにもかかわらず,私はいない(存在しない)ようにされていた。誰も私を自分たちと同じ存在とは見てはいなかった」と自らの「いじめ体験」を語ったことがあるが,周囲のいじめる側にとって,彼女が「同じ人間」であり「同じ時空間に存在している」ことは自明のことでありながらも,そのように<意識・認識>しないようにしているのである。自分たちとは<ちがう>こと=自分たちの仲間ではないことを証明するために,あえてそうしているのである。


断っておくが,私はそのように(同じ人間ではない・人外の人として)ハンセン病患者・被差別部落民を認識してはいない。私は,時として,感覚は認識をも麻痺させ,感性はまちがった認識を正当化させてしまうことを問題にしているのである。私は,歴史的事実として,その当時の人々の偏見と差別認識を問い直しているのである。歴史において被差別民(賤民)やハンセン病患者を<人外>と見なした人々の意識やそのときの社会意識を考察して述べているのである。
たとえば,「賤民」という認識について,その当時(中世・近世)の人々が一部特定の人間(集団)を「賤民」と認識していたかどうかを考察することと,現在において私がそれらの人々からつながる系譜の人々(末裔)を「賤民」(人外の存在・釈迦以外の存在)と見なしている(差別している)かどうかは別の問題である。私が彼らの祖先を「賤民」と決めつけて「差別している」と言われても,あくまでも学問上の考察・認識の問題であって,現在において私が特定の人々(被差別部落・ハンセン病回復者・障害者など)に対して差別観・差別意識をもって接しているのではないことを明言しておきたい。
残念ながら,特定の言葉・表現のみを取り出して,まるで「木を見て森を見ない」かのように,まるで当時の民衆と同じ差別観や差別意識をもっていると断言する方もおられるが,的外れな認識と思う。見解や解釈は人それぞれだが,真意を曲解しての批判は偏ったものになり,独断に陥りやすい。
単に「難病」を煩っているという程度の認識ではなく,「ハンセン病」患者であるという自己存在への認識,それは同じ「人間」と見なされてはいないという深い絶望であった。だから,彼らは,単に「ハンセン病」が治癒されているという意味だけ(そうであれば「ハンセン病治癒者」の方が的確だろう)ではなく,「(奪われた)人間の回復」という意味を込めて「ハンセン病回復者」と名乗るのだと思う。長島大橋が「人間回復の橋」と呼ばれるのも同じ理由・想いからである。長島に絶対隔離され,隔絶された世界の住人であることを余儀なくされ続けてきた彼らにとって,長島大橋は<絶望から希望への架け橋>なのだ。

<人外の人>という意味は,「人間以外」という存在的・物象的な意味ではない。例えば,感情的な対立から相手を罵倒する場合「畜生」(鬼畜)とか「人間でない」などと言うように,他者を自分(あるいは自分たちの集団や社会に所属する人間)と「同じ」(人間)とは思えないという感覚的・心情的な表現である。自らとの「ちがい」を強調する場合の表現である。ただし,まだ科学的な認識が不十分であった時代(中世)では,呪術的・超越的な世界観から「我々(一般的な)人間とは異なる(異質な)存在」という意味があったのも歴史的事実である。
いつの時代においても,差別に対処する人間の生き様が問われている。「誰が差別したのか」という命題と「なぜ,どのように差別したのか」という命題の前提となるのは,「差別とは何か」である。


癩患者というものは,その生前には縁者がなく,その死後にも遺族がないとしておくのが,血の繋がる人々への恩愛なのだ。

(川端康成 『寒風』)

これは北条民雄が文学の師と仰いだ川端康成が,民雄の死後に全生病院を訪ねて個人の亡骸に会い,その後に遺骨を引き取りに来られた遺族の訪問などをもとに書いた短編小説の一節である。

中世から近世の時代,なぜハンセン病患者の世話を賤民にさせたのか。なぜ病者・行き斃れ人の世話,死体の片付けを賤民にさせたのか。近世において,なぜ行刑や処刑後の取り片付けを賤民にさせたのか。賤民だからである。
誰に命じられるでもなく,率先して自主的に彼らがそれらの仕事をしていたとは思えない。それら命じられた仕事を一生懸命に誠実に行うことと,命じられないにもかかわらず自主的・自発的に行うことは別である。役目や仕事の内容が社会的に不可欠・重要であること,その役目や仕事を誠心誠意行うことと,それを自らが望んで行うこととは別である。


部落解放・人権研究所のHPに,次のような松下龍仁氏の報告文が載っていた。掲載されたのは,2004年5月である。

大阪の市民運動「福祉運動・みどりの風」によって一冊の資料の存在が明らかにされた。資料の表題には「大正五年特殊部落調附癩村調」と書かれてあり,中には全国の被差別部落と癩村とされる集落の世帯,人口調査がまとめて綴られていた。この「特殊部落調附癩村調」には38府県におおよそ4285地区,104576戸,585270人という数字が当時の部落の実体として報告され,「癩村」については9県におおよそ240地区,17800戸,患者数524人という数字が報告されていた。この調査は,当時ハンセン病療養所第1区全生病院の光田健輔院長が各道府県に依頼したものである。
前後の状況について詳しく述べると,光田はまず1916(大正5)年5月11日付(全発第384号)の文書で各道府県あてに「私宅療養癩患者調」を依頼,翌5月12日付(全発第385号)文書で「特種部落竝ニ癩村調」を依頼している(いずれの名称も回答文書からの推測)。ここから,「私宅療養癩患者調」と「特種部落竝ニ癩村調」は一対の調査であることが推測される。ちなみに「私宅療養癩患者調」には45県におおよそ10347人の患者数が報告されていた。
調査を依頼した日から各府県の回答送付日までの期間から考えると,各府県にはすでに「特殊部落」や「癩患者」についてのデータを保有していたと考えられ,そのうちのいくつかの府県では1911(明治44)年に内務省が実施した「細民調査」のデータが基礎になっていると思われる。また,各府県の回答者名は「○○県」という府県もあれば「△△県警察部」名で回答しているところもあり,ここからは「部落」や「癩患者」が治安の対象に置かれていたことが窺える。さらに,回答書には「特種部落」という記述以外に「旧称穢多」「旧穢多」「穢多部落」や「特殊部落」「細民部落」と表記されたものもあり,府県によって若干異なっていた。
調査を依頼した全生病院の光田健輔とは,当時,財界の実力者渋沢栄一の知己を得,ハンセン病患者に対する強制隔離政策推進の先頭に立った人物であり,この時期(1915年),全生病院を含めて全国に5つあった療養所の所長に入所者への懲戒検束権を与えることを強く要請し実現され,各療養所内に監房が設置されている。所長に入所者の生殺与奪の権限が与えられたのである。
また,同じく1915年,光田は全生病院内で男性の患者に対して断種手術を開始,親から子への感染を防ぎ,「隔離」と「断種」を連動させての癩患者撲滅策を推進している。この断種の法的根拠はなく,内務省や司法省の黙認のもとで行われている。

これは,単に光田健輔氏個人の差別観に帰結するものではない。光田氏の認識の背景には,当時の部落に対する社会認識・社会意識,また国家権力の認識(意志)があったのである。

「差別」「賤視」の定義はむずかしいし,その内容と理由を細かく分析して考察すれば,立場や視点によって異なる見解もある。特に時代の違いは大きい。時代によって社会通念も社会意識も異なる。その時代においては「差別」「賤視」でなくとも,後年においては人権の拡大によって「差別」「賤視」とされることもある。
同様に「賤民」の定義もむずかしい。何を根拠に「賤民」か否かを判断するのかがむずかしい。例えば「身分が賤しい」「賤しい身分」という史料(文献)の記述に関する解釈も様々である。「身分」と「人間(集団)」をどのように解するか,「賤しい」のは「身分」であって「人間」ではないとの考えもある。さらに「賤しい」の時代的な意味の相違もあるだろう。しかし「賤しい」「身分の賤しい」の前後の文章に「法外」「慮外」や「心得違い」「不似合い」などの言葉が書かれていることが多い。あるいは,「渋染一揆」の原典史料には「下賤成ル穢多共候得共」と自らを呼んでいる。

「賤民」であるかどうかを明確にすることも重要だが,私は身分によって様々な制限・格差(差別)が支配権力によって法令的に命じられ(規制・規定され)ていた社会のあり方自体を問題にしたい。身分差別を当然とする社会そのものを問題にしたい。なにも「穢多・非人」だけが差別されていたのではない。武士も平人も同じく身分制度において「差別」されていたと考えている。ただし,差別の内容と目的・理由がそれぞれに異なってはいる。
特定の人々を「賤民」と見なした事実があるかどうかである。その場合も「定義」は重要であるが,「定義」による事実の解釈ではなく,「史実」による事実の確認から「定義」を考察するべきだと考える。ただし,その際も各時代によって「認識」のちがうはある。

江戸時代においては法制上「賤民」という言葉自体は存在しない。では,一体何を指標として「賤民」身分なるものを概念規定すればよいのだろうか。結局,武士身分からだけでなく,平人=百姓・町人からも差別されている諸身分を「賤民」と総称するしか言いようがないというのが現状のようである。そもそも「差別とは何か」という問題も含め,昨今の「身分的周縁」という概念から考察する必要を感じている。「身分的周縁」という方法論は,従来単純に割り切って理解されていたものの実態における複雑さを解明し,既成概念をいったん解体した上で,新たにそこにいかなる理論的な展望を構築することができるかを考察するためのアプローチの一つと思う。


近世岡山藩においては,「穢多」と「おんぼう」と「両山乞食」の三身分が賤民の中心として存在していたものと考えられている。

治安維持については,「穢多」の動員に関して,貞享四年に「穢多」から「目明」役に就任した嵐山覚右衛門が画期となっている。岡山藩の「評定記録」によれば,覚右衛門の就任以後に「穢多」による「夜廻り」や盗人逮捕の事例が見られるようになる。したがって,覚右衛門の「目明」就任は,「穢多」を治安維持に動員する上で重要な意味を持っていたと考えることができる。

「おんぼう」次郎九郎は,「町方盗賊見廻り役」を務めている。「両山乞食」の支配を開始する延宝期以降は,「両山乞食」を伴って,取締り・追払(見廻役)を行うようになる。この見廻役は,城下の「葬式火葬」独占と不可分の関係にあり,「おんぼう」としての特徴である葬送権確保のための見廻役であったと考える。

「野乞食」追払を在方で担う「非人番」は,「穢多」と「非人」双方が行っている。ただし,「非人」による「非人番」の事例においても,「穢多」の「世話」によって「非人番」に就任しており,「非人番」は基本的に「穢多」によって組織化されていたものと考えられる。

この他にも賤民の活動として,死体処理や斃牛馬処理・勧進行為などがあげられる。これらのうちで,死体処理に関しては,正徳期の藩による確定以外,具体像をつかむことができていない。また,斃牛馬処理に関しても,「穢多」による讃岐への牛皮買集や死馬獲得の事例と「平人」による牛皮集荷や大坂「役人村」への牛皮輸送の事例が見られる程度であり,その具体像は解明できていない。

「渋染一揆」に際して,「非人」は関与していない。また「目明し」は『嘆願書』を届ける手伝いのみならず文書推敲の助力をしている。しかし,強訴に際しては村役人とともに説得・阻止を行っている。「佐山村」で伊木軍と対峙した時,代表八人が帰りかけると,「目明し」の手先十四・五人が手道具を持って捕らえようと襲ってきている。城下五か村は「役人村」として「目明し」の統制下にあったわけだが,この点についても岡山藩の支配・統制体制(指揮系統と職制)についてあらためて考察しておく必要がある。特に,城下と郡部ではちがいが見られる。

『足軽目付犯科帳』(高橋義夫 中公新書)『犯科帳のなかの女たち−岡山藩の記録から−』(妻鹿淳子 平凡社選書)を読むと,各藩・各地域によって支配体制や統制体制がちがうことがわかる。一応,各藩は幕府の職制に倣いながら独自の支配体制を構築している。特に末端機構においてはその違いが大きい。

明治以降においては「差別」「賤視」の事実は明らかである。その際の「差別」と「賤視」の定義が,江戸時代,さらには近世・中世においても適用されうるのかどうか,史実から実態をあらためて解明していく必要を感じている。

明治以前と以後を明確に分けるのは「身分制度」である。身分制度上の「身分差別」を「差別」と考えるかどうかで見解が分かれるように思う。「賤しい」の意味も,どのように「定義」するかによっても「差別」との関係が異なってくる。

posted by 藤田孝志 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 部落問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月06日

部落史研究と部落史学習

京都部落問題研究資料センター通信『Memento』10号(2002年10月25日発刊)に「部落史研究の現在と学校教科書」と題した灘本昌久氏の小論が掲載されている。今から8年以上前の小論だが,要点をうまくとらえた考察で,しかもわかりやすい。いくつかを引用・紹介しながら私見を述べてみたい。

最近の部落史研究の動向を反映して,小中学校社会科教科書の部落史の叙述も大きく変わってきた。ひとことで言うと,近世政治起源説をすてて中世起源説をとるようになり,賤民と称された人たちがいかに差別迫害されてきたかという陰の部分に焦点をあてる傾向から,いかにプラスの社会的役割を果たしてきたかという光の部分に焦点をあてる叙述に変わってきている。

「部落史の見直し」以降,教科書記述や部落史学習の傾向は灘本氏の指摘するとおりであるが,教育現場で感じてきたこの10年間は同和問題の衰退,あるいは部落問題学習・部落史学習の形骸化である。10年間は,教育現場では世代交代を意味する。校長・教頭のみならず学年主任や人権教育などの担当者が数人は代わる。うまく引き継ぎができればよいが,そうでなければ形式的な事業計画のみが踏襲され,やがて形骸化・縮小化の一途を辿る。

同和教育から人権教育への弊害は,人権教育の多様化が同和問題すなわち部落問題を無理にしなくてもよいという免罪符として受け取られたことだ。事実,ここ5年ほどの各県・各市町単位で行われる人権(・同和)教育研究と銘打たれた大会の参加人数や内容の乏しさ,何よりも参加者の意識の低さは如何ともしがたい実情である。ここ5年ほどは参加していないが,全国人権・同和教育研究大会の要項及び内容,報告書などの資料を見る限りではあるが,随分と様変わりしたように感じている。

部落史学習がほとんど社会科教員に任されている昨今の実情では,はたして系統的・体系的な授業実践が他教科や道徳などと連携されて実施されているか疑わしい。また部落史に関する共通認識を目的とした職員研修がどこまで実施されているか,何よりも社会科教員の部落史に関する知識や認識,またその蓄積を目的とした研鑽がなされているかどうか,現場にいてそのむずかしさを痛感する。


「部落史学習の位置付け」について,灘本氏は「小中学校で部落史学習は必要かという根本問題」に関しては「不用意な人権学習というものは,差別の解消どころか拡大再生産に手を貸すことになりかねないので,注意が必要である。」と述べ,子どもの年齢による認識のちがいを考慮した学習内容にすべきであると言う。灘本氏は実感から「小学生に中世起源の部落史学習が可能かどうか,あるいは必要があるかどうかは疑問で,中学生でも,ちょっとむつかしい感じを受ける。」と述べている。

私も一般論としては同感であるが,単に年齢的な発達段階だけで認識・認知をはかることには疑問をもつ。むしろ,人権学習や部落史学習をおこなう体制が整っているかどうか,授業内容と計画,教材や資料の準備などが十分であるかどうか,何よりも指導する教員と学校が研修と実践を積み上げてきたかどうかだと思う。

灘本氏は,「部落問題を日本史授業の中でとりあげる場合,二つのアプローチがある」という。「部落問題学習の一環としての部落史学習」と「民衆史的アプローチ」である。そして,「この二つのアプローチのどちらをとるかで,部落史学習の語り口は相当変わってくる。」という。少し長いが引用しておく。

前者の場合は,概略以下のような流れの話となる。古代末から中世にかけて,一般農民の共同体からはじき出され,あるいは脱落・流出し,中世非人(社会外の社会)となった人びとが,宿・声聞師・河原者などの賤民集団を形成し,河原者はケガレの処理を中心とする職能集団として,さまざまな仕事を担う。そして,動物の死骸などケガレの処理は,本来,河原などに埋めてしまえばこと足りるのだが,病弱になって働けなくなった耕作用の牛馬は,単に飼い置くわけにもいかず,その屠殺も河原者の仕事である。こうしてできた動物の死骸から様々な物を作る化製業系の仕事が発生する。皮革の製造はいうに及ばず,接着剤としての膠や漢方薬である牛黄など,さまざまなものを工夫して製造した。戦国大名が,城下町築造の際に,自分の出身地から皮多を引き連れて来て優遇したのは,こうした特殊技能を重視してのことである。また,犯罪の取り締まりや処罰も,ケガレの処理の一形態で,古くから河原者もたずさわっていた。近代になっても,各地の部落に十手や御用提灯が保存されていたのは,そうしたことに由来する。また,ケガレの処理から発展したものに,権門の住居のトータルコーディネーターという役割もある。本来は,庭を清浄に保つのがケガレ処理の本義であろうが,徐々に土木技術や作庭技術・理論を発展させていった。また,警察業務との関連もあるが,庭者の陰の任務として,諜報活動も重要な仕事であった。こうしたケガレ処理関連の仕事とは別に,河原者たちは営々と農地の開墾・耕作に努力し,江戸時代に入ってからは,一般の百姓とかなり近い存在となっている。江戸時代の中期以降は,町人文化の発展に連動して,製造業,とりわけ雪踏の裏張りの原料である皮革を独占的に製造していた関係で,履物関連産業が一挙に開花・発展して,皮多村の経済が飛躍的発展をとげる。また,動物の屠殺や化製業に関する知識,および処刑などの刑吏役から来る人体に関する知識が発展して,医療技術にたけた穢多身分の人が輩出される。

… 中略 …

以上は,部落問題の理解をはかるという意味からの部落史の骨組みであるが,もうひとつの民衆史的アプローチから被差別部落の歴史を位置付ければどうなるだろうか。この場合は,部落問題の系譜的,系統的理解にこだわらなくても,時々の下層民,賤民,被差別民の社会に対する貢献として,様々なエピソードをとりあげればいいことである。「時々の生活の改善や,文化の発展には,さまざまな階層の人々が努力し,貢献しました」と。そして,室町文化における庭造りや,『解体新書』のための人体解剖など,比較的プラス・イメージの強い上澄みのところを積極的にとりあげていけばいいわけである。この場合,特にキヨメ→河原者→皮多→穢多→同和地区民の系譜的連続性にこだわる必要はなく,他の職人や賤民の貢献と並列してとりあげることができる。

灘本氏も,このどちらが好ましいと結論付けるつもりはないと述べ,両者のメリットとデメリットを挙げて,次のように述べている。

小学生にあまり前者の系統的部落史を教えると,どんな誤解をしたり否定的イメージが刷り込まれるかわからないので,注意を喚起しておきたい。教える側の力量を相当問われるし,ある種の気迫もいる。中途半端には教えにくいのである。ただ,逆に部落差別の理解という点では,民衆史的アプローチでばらばらのエピソードを教えたぐらいでは,なかなか差別の問題が心の底からわかったという具合にはなりにくいという欠点もある。

私はこの両者の相違は部落史学習の方法論というよりも部落史研究のアプローチ論のように思われる。前者が部落問題の歴史的背景を時系列的な経緯として体系的にまとめるのに対して,後者は個別の事例を時系列にとらわれず生活史的にまとめようとしている。これは部落史研究における課題的研究と概説的研究の相違であって,それを小中学校の部落史学習に適用するのは短絡過ぎるように感じる。

灘本氏は上記において,「ケガレ」に基づいた部落史を概観しているが,差別の本質が「ケガレ」にあったとしても,各時代・各地域における被差別民の生活実態・仕事・役務など,さらには支配層や周辺民衆の賤視観も必ずしも同一ではなかっただろうから,どこまで体系化した部落史学習のテキストと授業プランを構築できるか,研究であれば可能だろうが,授業となるとむずかしさを感じる。社会科の歴史的分野の一環として部落史を扱えば,尚更にむずかしい。つまり,教科書に即応しながら古代から近現代までを概観する歴史の各時代史に部落史を位置づけながら説明していく授業では,時間的にも内容的にも無理が生じる。何よりも生徒の理解力・理解度を基準にすれば,多種多様な生徒に対して無謀な試みとも言える側面を否定できない。

以前に,時代の節目ごとに集中的な部落史学習をおこなったことがある。中世までを区切りとして平安時代を中心に「中世賤民」を,近世までを区切りとして江戸時代を中心に「穢多・非人」を教える授業をおこなった。また,ある時期に,これも集中的にテーマ学習としての部落史を授業で取り上げたことがある。「水平社宣言」から「エタとは何か」をテーマに「日本における被差別民の存在」を歴史的に遡り,ついで「水平社」から現代までを「部落解放運動」を歴史的に辿る授業を計画しておこなった。すべて自作教材での授業であり,4〜5時間の集中学習として実践した。生徒の理解という点では十分に高まることができたし,何よりも道徳との連関により「部落差別解消」を一環した目的とする視点からのアプローチだったので,生徒がまちがったとらえ方に陥ることはなく,国民的課題を自分の問題として把握することができた。しかし,これは通常の授業でおこなったのではなく,特別講義のようなもので,指導マニュアルに即して簡単にできるといった授業ではない。

部落史学習の中で,陥りやすい誤りについて指摘しておきたい。それは,現在の価値観や経験を過去に投影してしまうということである。…こちらが京都の部落に関する説明をし,キヨメ役の解説をしたところ,「掃除などという人の嫌がる仕事を押し付けられていたのですね」という反応だった。京都の穢多村が担当していた,小法師役(御所のキヨメ),二条城掃除役などは,決して押し付けられていた訳ではなく,…他の賤民集団から奪い取ってでもやりたい仕事であって,穢多村の沽券にもかかわる重要なことなのである。

まったく同感である。つい現代の感覚や価値基準から過去を判断してしまうことがある。時代感覚のちがいだけでなく,価値観や認識のちがいが重要と考える。<差別>にしても,当時の差別観や賤視観,社会認識,人間観などを考慮して判断しなければならない。現代と近世,近世と中世では同じものもあれば大きくちがうものもある。現代に生きる我々の感覚や価値観,価値基準で過去の社会を判断することは誤謬を生むことになりかねない。

これとは逆に,今の職業ステイタスで高いものを過去の賤民の歴史から拾い出そうという傾向もある。…成績の良い子は医学部に行かせたがる現在の価値観を過去に投影して,「穢多身分の仕事は,人に嫌われることばかりではなく,医学にかかわる仕事にも従事しました」という教え方は,欺瞞的といえよう。…穢多身分と医学のかかわりは,「皮はぎ」「首切り役人」との密接なかかわりから出てきているものである。…「首切り役人」が医療技術にたけているのは,日本に限ったことではない。阿部謹也氏は『刑吏の社会史』(中央公論社,1978年)の中で中世ドイツにおける刑吏と医学について次のように指摘している。「中世において人体解剖は禁じられていたし宗教的制約が大きかったが,拷問や処刑を実施した刑吏は自ら生体解剖を行ない医学の最先端に立っていたのである。…人々は大学を出た医者よりも刑吏の治療の方を信用していた。…大学を出た医者は人体解剖することを許されていなかったからである」(132頁)。そして,ドイツでも刑吏と「皮剥ぎ」の関連が見出されるそうなのだから,人間のやることはよく似ている訳である。更に,ドイツ語にいう「angstmann」という苗字が「死刑執行人」という意味であることと,穢多の総大将「弾左衛門」という呼び名は「断罪」に由来するものではないかという推測を重ね合わせると,ますますもって興味は尽きないのである。

差別や賤視というマイナスを消すために,「社会に役立つ仕事」という社会への貢献度や武士身分であったなどをプラスの材料として提示することで被差別のイメージを払拭させようとする論法があるが,灘本氏が言うように,私も欺瞞的であると思う。


差別−被差別の関係性は,ある人間集団が特定のある人間集団を「賤視(差別)」することで生まれるもので,その逆はない。つまり,特定の人間集団を差別するという社会的な現象(最初は個人的な現象であったものが社会的な現象へとなっていく)があって初めて,「差別者」が定義・規定され,差別される(受ける)ことで(その対象とされることで)「被差別者」が定義・規定されるのである。そこには,「差別者」の中に,ある特定の人間あるいは集団を「差別する理由」があり,その理由によって対象が選別されるのである。

問題は,その「理由」である。なぜ,彼らを「差別」したのか。そして,差別の「定義」である。何を「差別」とするかであるが,これが最も簡単であり,最も複雑でむずかしい。「差別」という言葉や表現を明確に定義することなく,自分勝手な解釈で使用している人が多いように思う。どのような言動や行為を,どのような理由によって,その根拠となる定義に基づいて,さらに現在の社会において認知・承認されている適切な用法かどうか等々もふまえて判断しなければならない。まして他者に向けて「差別者」と断定する場合,その根拠や理由が曖昧であったり,社会認知も受けていない解釈であったりすれば,それは名誉毀損・人権侵害である。自分勝手な理屈で他者を「差別者」呼ばわりするなど常軌を逸脱しているとしか思えない。それだけ「差別」という言葉は慎重に使われなければいけない。よく生徒が何かあればすぐに「差別だ」「セクハラだ」等々を口にするが,それだけ理解や認識が不十分であるということだ。

また「差別」に付加することで,「差別」の内容・定義が変わってくるものがある。たとえば「身分」や「社会的立場(地位)」である。また,各時代における政治体制,社会意識なども関係する。これらは,特定の集団を「差別」する「理由」にもなる。


芸能と賤民

…私はうかつにも「竜安寺石庭を築造した庭者」という表現を使った。また,同様の表現をしている教科書も多くあるが,実は,竜安寺の石庭を河原者(庭者)が作ったという証拠はない。竜安寺石庭の庭石に刻んである名前が河原者ではなかろうかという,希望的観測があるだけである。また,銀閣寺も河原者によって作られたという確たる証拠はなく,善阿弥という庭造りで名を成した河原者を重用した足利義政が,善阿弥の死後,銀閣寺(東山山荘)を造営し,庭木の選定や収集に河原者を使っていたので,ひょっとすると庭のコーディネイト全体を河原者にまかせたのではないかとの推測はなりたつが,史料上確たる証拠はない。善阿弥が生きていたら銀閣寺の庭造りを彼にまかせたことはまず間違いないだろうが,善阿弥の死後作られた銀閣寺の庭園の作者はわからない。河原者が作ったことが確実なのは,むしろ禁裏(御所の内裏)のほうだ。これは,1474年(文明6)あたりから,『言国卿記』などにたびたび出てくる(『京都の部落史』第3巻555頁など)。

また,室町文化のところで,河原者の庭作りとならんで登場するのが,観阿弥・世阿弥の能であるが,これを賤民芸の一種と見る傾向がある。しかし,芸能史研究家の山路興造氏によれば,能は古代以来の猿楽の系譜を引くプロの芸能集団に属するものであり,室町時代以降声聞師など賤民集団が演じた千秋万歳にみられる祝福芸とは別系統の芸能である(『翁の座』平凡社,1990年 17頁〜,『京都の部落史』第1巻115頁〜)。能と庭造りを並列して,中世賤民の文化への貢献とひとくくりにするわけにはいかない。

「被差別民と芸能」に関しては,私の今後の研究課題である。実は,中世の被差別民に関しては概略的な理解でしかない。

『部落史研究からの発信』第1巻前近代編に所収されている村上紀夫氏の「中世被差別民と芸能」に,次の一文がある。

中世に使われた「芸能」という語は,現在一般的に使われている「芸能」に限定されない,さまざまな技能を意味する語である。…

ではここでいう被差別民とは何か。被差別民という語そのものは「差別されている人」を意味するにとどまり,「差別する」主体や社会・権力との関係について何ら規定するものではない。古代の律令に良民と区別して規定される賤民のように明確ではなく,その定義は容易ではない。当事者自身の自己認識や主張を史料から殆ど知ることができない現在,研究者が「差別されている」と認めた存在であれば,すべてを「被差別民」とすることができる曖昧さをもっている。とするならば,中世における「差別」とは如何なるものか,研究者自身によって定義されないまま安易に「被差別民」という語を使うことは,「被差別民」の指し示す範囲を無限定に拡大させることになり,却って理解を混乱させるものであるといえる。

先に「差別」を明確に定義することの困難さを述べたが,この一文がそのことを端的に表している。事実,上記の『部落史研究からの発信』で,寺木伸明氏が「近世身分制」と題する小論において「身分」の定義について各学説を紹介しながらも,「肝心の身分の定義すら学界で共通理解されていない状況」があると認めている。「差別」「身分」の定義すら種々の学説によって定義や意見が分かれる以上,被差別民の規定が明確でないのは当然といえるだろう。

そのような学界の研究状況から部落史学習として何を生徒に提言できるのか,それが最大の課題である。

村上氏は「成果と課題」として,次のことを提起している。

林屋(辰三郎)のいう芸能と差別との関わりは,いわば当時の時代状況にあって「発見」されたものであり,その議論には一定の緊張感があった。しかし,その後の研究では極めて平板な「日本の文化は被差別民が創った」といったスローガンになってしまった感がある。

そこで,今後の被差別民と芸能について論じるには,少し慎重にその関係について見極めていかなければならないだろう。とりわけ芸能者が差別されていたか否かについては,個々の事例について,当該芸能に携わっている芸能者がすなわち被差別民である(芸能と被差別民が一致する)のか,さまざまな芸能者が関わっている芸能に被差別民が参入している(芸能者の一部に被差別民が含まれる)のか,被差別民の生業の一つとして芸能を行っている(被差別民の生業に芸能が含まれる)のかを厳密に確定していく必要がある。

これは「被差別民と芸能」の関係だけではない。身分的周縁とも関係する。また,「差別−被差別」の関係性にも当てはまる提起である。このことも含め中世被差別民については,今後の課題としたい。


政治利用論

能のことは,まだ目をつぶるとして,江戸時代初頭の身分制の確立のところで,多くの教科書が,「穢多・非人身分=分裂支配の道具論」を採用していることにはびっくりさせられる。武士に向かう農民の不満を下に向けさせるという論理なのだが,江戸時代の幕藩体制の成立と身分制の確立を罪悪視するところからくる誤解だろう。もうすこし,戦国の動乱を終わらせ,二百数十年の平和と安定をもたらした江戸時代,そしてその基礎をなした身分制を積極的に評価するべきである。下剋上を終わらせた(下剋上自体は,農民の上にのしかかっていた重層的な所領関係を一掃し,領主―領民のシンプルな関係にした点でプラスであるが)ことは,多くの庶民にとっても福音であったはずで,であればこそ,江戸時代にあれだけの経済・教育・文化などさまざまな面での素晴らしい発展があったのである(梅棹忠夫『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展』日本放送出版協会,1986年)。江戸時代の初めに,身分制度の確立のため締め付けられたのは,第一には諸大名であったし,武士も身分制度の枠をがっちりとはめられた。マルクス主義的な階級闘争史観を克服するためにという触れ込みで編纂されたはずの扶桑社版の教科書までが「百姓や町人に自分たちとは別の恵まれない者がいると思わせ,不満をそらせることになったといわれる」という具合に,ばりばりの「政治支配の道具論」を採用していることには苦笑させられる。

こうした誤解と連動して,江戸の後半に起こってくる穢多身分に対する風俗統制にも大きな誤解がある。多くの教科書が「長年差別に苦しんできた穢多身分の人々が,江戸の終わりころについに立ち上がった」,あるいは,「財政難に陥った藩が,倹約を命じ,穢多身分の風俗を統制した」という趣旨のことを書いているが,むしろ,江戸時代の平和と安定の中で,商品経済が発展し,町人向けの履物製造業が繁盛するなどの追い風を受けた穢多身分が,百姓身分を凌駕するまでに成長してきたので,旧体制である幕府や藩は,古い殻に閉じ込めようとして,風俗統制を強化したのである。穢多身分の経済発展と人口の増加があれほどでなければ,風俗統制のために必死になる必要はなかった。

灘本氏のこの主張にも頷く。だが,このことは−私も含めてだが−近世政治起源説を否定するあまりに,政治体制や権力の関与さえも否定あるいは二次的な間接関与ととらえてしまう結果となった。上杉氏も最近の著作でこの点は強調している。しかし,政治の関与がどの程度のものであったのか,支配体制づくりにおいての関与か,身分編成における関与か,民衆の意識への関与であったのか等々については未だ不明確である。さらには相対的な関与か絶対的な関与かといった側面も考察しなければならない課題である。たとえば,行刑役について強制的な役務であったかどうか,命じられた被差別民の心情はいかなるものであったか,それを周辺の民衆はどのように受けとめて意識していたか,風俗統制における「分け隔て」を両者はどのように感じていたのかなど,政治の関与に対する民衆の心理も考察しなければ,現代まで通じる部落差別の解明はできないと考える。


解放令=空手形論

近代の部落史の部分で気になるところは,多くの教科書が,「解放令=空手形論」を採用していることである。「形式的には平等になったが,それまでの特権(斃牛馬処理,免税)が廃止され,仕事の保証など政府からの援助がなかったので,かえって貧困化した」という書き方である。しかし,江戸時代後半からの穢多村の経済発展は,明治時代に入ってからも続いている。京都の中心的部落である崇仁地区の記録である『柳原町史』によれば,「安政已来漸次隆盛の域に進み,慶応より明治六,七年迄は其極度とも云ふべき有様」であったという。解放令の出された明治四年は,まだピークの前の上り坂である。したがって,成立して間もない貧乏革命政権が,解放された穢多村に経済援助をする理由はまったくなく,またその必要もなかったのである。

重要なことは,部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが,松方デフレ政策にほかならない。1877年(明治10)に勃発した西南戦争で,明治政府は最強のプロ戦闘集団である薩摩武士を相手に多額の軍費を使い,不換紙幣を乱発したために,悪性のインフレに見舞われた。その解決のために,松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために,一挙にデフレになり,部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。決して,部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく,また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は,江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり,社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して,明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり,明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。部落の貧困化は,そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである。

解放令に関しては,その成立に至る歴史背景や歴史的諸条件と理由についての相対的な考察が必要であるが,これについては上杉氏などによって解明されている。だが,解放令反対一揆との関係,特に民衆の意識については不明な部分もある。解放令反対一揆が起こった地域と起こらなかった地域の歴史的背景と歴史的諸条件,それぞれの民衆と被差別民の関係性など,明らかにされていない点もある。

灘本氏は京都の柳川部落を例にされているが,全国的に共通とは必ずしも言えない。経済基盤である主要な生業のちがい,被差別部落の規模,周辺民衆との力(自立)関係などは,地域によって大きく異なる。各地域の独自性と共通性を明らかにしながら総体的な部落史を組み立てなければならない。それが部落史学習の教材化であろう。

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2012年05月04日

差別意識の歴史的変容

部落差別を解消していくための実践力を身につけていくことが,部落問題を学習する最も大きな意味であり目的である。部落史学習においても同様である。すなわち,なぜ現在も部落差別に苦しむ人々がいるのか,この差別の要因は何か等々を,歴史的経緯を学ぶことを通して考察し,部落差別の解消に主体的に取り組む姿勢を養うことが部落史学習の大きな意味であり目的である。この視点を教師が明確に自覚していなければ,部落史学習の効果は全く逆の方向へと流れてしまう。

江戸時代における差別の厳しさを教えることで差別の不当性を理解させようとした教師が,その例として『慶安の御触書』から「稗や粟の食事」を想起させるために,実際に鳥の餌を用意したという授業を聞いたことがある。同様に,生徒の発言において「さらに低い身分の人々」の言葉が連呼され,言葉が一人歩きするかのように教室を飛び交う授業を見たこともある。これらの授業において欠落しているのは,授業において何を学び合うかという視点であり,「史実から何を学んでいくか」という志向性と姿勢である。知識を注入することだけに終わる授業や,差別の厳しさが強調されるだけの授業,教師の一方的な解説と差別禁止の説諭を聞かせるだけの授業から,部落問題を自らの課題と受けとめる生徒は生まれない。


解放社会学研究所の江嶋修作氏による同和地区の実態分析から明らかにされた「構造的不安定」の概念を,我々教師はどのように受けとめ,どのように部落史学習に生かしていくべきかについて私見を述べてみたい。

「被差別の現実に学ぶ」という同和教育の最も重要な視点において,江嶋氏による同和地区の実態分析と「構造的不安定」の概念は,我々教師に対して部落史学習のあり方を根本的に考え直す必要性を示している。従来の部落史学習,単に部落差別が現存しているという曖昧な認識だけで過去の史実を断片的に教えてきた部落史学習からは,この「構造的不安定」の社会状態に置かれている同和地区の歴史的背景は見えてこない。現実の実態として同和地区住民が抱いている「構造的不安定」な生活状況を的確に把握し認識したうえで,なぜこのような実態が生み出されてきたのかという視点から部落史を考察していかなければ,部落差別を解消していくための部落史学習にはならない。部落史学習が知識の学習や遠い昔の出来事の学習に終始している理由の一つとして,我々教師が同和地区の実態を十分に把握できていないことが考えられる。確かに差別の実態は見えにくくなっているが,依然として差別は存在し,同和地区住民を苦しめている現実がある。むしろ「見ようとしない」教師こそが増えているのではないだろうか。

この点からも江嶋氏の同和地区の実態分析から考察された「構造的不安定」の概念は,我々教師にとって学ぶべき多くの示唆を持ち,しかも部落史を過去から現代までの「流れ」として捉え,過去を現在につなげていくための視点を与えてくれている。その視点に関する江嶋氏の言葉をいくつか引用しておく。

【地区住民の日常生活を細部にわたってみていくと,生活のさまざまな分野で「見ただけでは解らない」部分での違いがある。何かしら「安定感に欠ける」ところである。この不安定さが,部落差別の結果もたらされている地区の現実である。…同和地区が抱えるこの「構造的不安定」は,部落差別による直接的影響を抜きには考えられない】
【結婚差別は,差別を受ける側の人を一般の社会的空間から排除する。差別を受けた者は,自分がその社会のなかに「存在している」にも関わらず,その社会に「存在しない」ものとして扱われる。いじめ問題におけるクラスの子どもたちからシカトされる子どもの位置である。結婚差別が地区住民の社会的人間関係に重要な影響を与え,ひいては,住民個人の心理的状態にまで食い込み,不安を与え続けていることは明らかである】
【…一般社会の部落差別に対する認識は,差別的である。このことは,一般社会の人間関係,ルール,秩序等が,差別的認識をもとに構成されていることを意味する。ここに,一般社会の人間関係,秩序からの地区住民に対する排除の論理が入り込む根拠がある】
【地区住民を「社会的に排除しようとする」意識,態度が最も具体的な形で表される場面が結婚差別である。…結婚差別やつきあい差別を中核として,その他の社会的場面にまで広がる社会的排除の論理は,地区住民に重圧として覆いかぶさり,彼らの社会生活を不安定にしている】

江嶋氏による「構造的不安定」の概念をもとに部落史を見直すとき,次のような視点が欠落していたことに気づく。
それは,「差別される」側の意識,つまり「差別を受ける」ことによって「差別される」側がどのような心理的・社会的状態に追い込まれていったかを考える視点である。この視点から考えれば,法制度として「身分差別」が当然とされた江戸時代の社会と,「人間の平等」を原則とし「身分差別」を否定した明治以後の社会という違いはあるが,社会状況においては現在の同和地区における「構造的不安定」の実態も,江戸時代の身分制度下における被差別身分の実態も,根本的には同じである。すなわち,「差別する」側によって「差別される」側が「社会的に排除される」ことによって,「構造的不安定」の社会状態を強いられている実態という意味で同じなのである。そして,この実態を生み出しているものは,「差別する」側の差別意識であり,差別意識から生じる「まなざし」である。確かに差別意識の表出形態は,各時代の政治的社会的体制の影響を受け変容しているが,差別意識自体は変わることなく時代の底流で存在し続け,「差別される」側とって形容しがたい「不安」と「不安定」を伴う「まなざし」として感じられ続けてきている。

中世において,相国寺などの多くの石庭を作った善阿弥の孫である山水河原者の「又四郎」という人物が鹿苑院の住職であった「周麟」に語った「某,一心に屠家に生まれしを悲しみとす。故に物の命は誓うてこれを断たず,又財宝は心してこれを貪ぼらず」という言葉(「鹿苑日録」1491年 『京都の部落史』第三巻所収)と,江嶋氏の実態調査で語られた同和地区住民の「なぜ,そんな思いをしなければならんのか,悔しかった」という言葉は全く同じである。五百年以上経っても何も変わってはいない。これが差別意識から照射される「まなざし」に苦しむ被差別者の「構造的不安定」な実態である。


江戸時代の身分制度の学習を通して,身分差別の厳しさや不当性を知識や論理で理解させる授業は行われてきたが,被差別身分の人々が日常的にどのような思いを抱いて日々を過ごしていたかについて思いを馳せるような授業は実践されなかったのではないだろうか。それは,教科書の記述内容の域を出ることがなかったためであり,何よりも過去の世界であって現在とは違うのだという思い込みが教師にも生徒にも暗然とあったからだと思える。つまり,部落史において語られる世界を,教師も生徒も現実世界とは違う仮想世界のように捉え,差別の厳しさや辛さ,苦しさを抽象的な想像でしか理解できていなかったのである。その結果,「かわいそう」という同情的な感想や「部落に生まれなくてよかった」という無責任な他人事の声が聞こえるのだ。

我々教師の目指すべき部落史学習の授業とは,歴史学習を通して,この「構造的不安定」の実態を生み出している差別意識,差別する側の意識を,自らの「生き方やあり方」と重ねさせながら,生徒に実感的に理解させていく授業である。また,差別意識から生じる「まなざし」がどれほどの「不安定」と「不安」を被差別身分や同和地区の人々にあたえてきたかを,差別の中を生き抜いてきた人々の姿を通して,生徒に認識させていく授業である。すなわち,部落史学習の目的とは,差別意識が引き起こしてきた差別の実態を歴史的経緯を通して学ぶことによって,現代の部落差別を解消していく方向性を見いだしていくことなのである。


次に,その一例として「解放令」を,差別意識の表出形態が大きく転換した史実として捉え考えてみたい。

江戸時代においては,武士による支配と幕藩体制を支えた身分制度は「絶対の枠」として存在していた。その「絶対の枠」を崩すことになったのが「解放令」である。つまり江戸時代の身分制度は「解放令」によって解体し消滅したのである。別の見方をすれば,被差別民の希求し続けた「平人(百姓や町人)と同様の存在(身分)になる」という平人化要求を,「解放令」を出したことで,支配体制(明治政府)が(実際は別の意図から)認めたとも解釈できる。だからこそ,被差別民は「解放令」を「平民化」を保障する法的根拠として受けとめたのである。長年の夢が実現した被差別民は,自らが「平民」であることを示すために実体行動を起こした。脱賤化の実行である。死牛馬処理などを「賤業」として拒否することを申し合わせる一方,これまでの差別的な慣行を打破し始め,服装や頭髪の型,道路や家屋内での行為,飲食時の差別的な慣習をなどを積極的に変えていった。さらに,これまで排除されてきた浴場への入浴,祭礼参加や氏子加入等も要求し始めたのである。

しかし,そのことは必然的に,一般民衆の反発を招いた。江戸時代においては,被差別民の脱賤化を「傲慢」として不満を持ちながらも,身分制度という「絶対の枠」ゆえに,ある種の安心感を持っていた百姓や町人の眼に,「解放令」以後の彼らの脱賤化の行動は,「穢多」が同じ身分になること,農民になって自分たち固有の職業を奪い,生活を脅かすものとして写ったのである。そして彼らを「別社会」からの侵入者としか見ることができず,彼らの脱賤化の行動を阻止し,封じ込めようとしたのである。具体的には,入浴や結髪の拒否,商品販売の拒絶,日雇いや小作の拒否,入会地利用の拒否などであり,さらには「解放令」の取り消しすら求めた。

江戸時代においては,身分制度によって法的・体制的に規制され,ある程度均衡が保たれていた差別意識が,「解放令」によって「同一身分」とされたため,一般民衆と被差別民という対立関係へと転換したのである。このことを,小松克巳氏は学校に喩えて次のように説明している。

…江戸時代をより正確にたとえると,学校のなかで「いじめる」側と「いじめられる」側が接触することが少ないように,「いじめる」側を本校として,「いじめられる」側を分校という隔離した場所に置いているような形でした。…近代になると,その本校,分校が統合される形になり,本校の子どもたちと,分校の子どもたちとがさまざまな接触をするようになり,問題がおきることになりました。

(塩見鮮一郎・小松克巳 『どう越えるか?部落差別』)

この確執と対立が頂点に達したのが「解放令反対一揆」であった。この一揆は,江戸時代を通して形成されてきた民衆の排他的かつ優越感に彩られた差別意識と被差別民の脱賤化行動への不満が,部落への襲撃として表出したものである。つまり,差別意識の表出形態が,政治的社会的体制の変化によって変容せざるを得なくなった極端な事例なのである。

もとの穢多に戻るということは,たとえば,道で農民とすれ違うときに,道をよけて 土下座して,通り過ぎるのを待たなければならないんです。…ちょうど武士に対して農民がやらなければならないようなことを,被差別部落の人は農民に対してやらされていたんです。…いわゆる水のみ百姓であってもそうなんです。あるいは,農民の前では下駄を履いてはならない,あるいは雨でも傘をさしてはならない。…草履を脱いで家の中に入るんです。…そういうことを明治の四年までやらされていたわけです。しかし,賤民廃止令(解放令)以降、みんなそれをやめました。道であったらぺこりとおじぎをして、立ったままあいさつして通り過ぎるわけです。…「わしは水のみ百姓だけども、あいつとは違う。あれは穢多じゃ。見てみろ。道で会ったら、あいつらは土下座をしてわしの通るのをよけてくれる」と思っていた人たちは、体の血が逆流するような思いです。

(上杉聰 『天皇制と部落差別』)

この差別意識が,現在まで変容しつつも根強く残っていることは,江嶋氏の実態分析で明らかである。ただ一方で,その差別意識の流れに対抗する意識が,部落解放への意欲と方向として被差別部落の人々の中に強く生き続けてきたことを忘れてはならない。だからこそ,この両面の流れを明確に捉えた部落史学習が求められているのである。

例えば解放令以後の,街にでて風呂屋にはいるとか,店に入るとか,銭湯を断ることなど,もちろんトラブルが生まれるわけですが,平民化というとらえ方を大事にした授業ということが考えられるのではないかと思います。なぜなら,その平民化ということが,自由民権運動の中で福岡市でいうと復権同盟にあたりますし,大阪でいうと大阪自由党などがあって,いわゆる平民化が思想として高められるということがあったわけです。…この平民化・自由民権運動が伏線になって水平社運動があるわけで,明治になって急に差別が残り「水平社」につながっていくということはないわけです。…幕末まで人々は闘ったんだと,そして解放令が非常に差別的にだされたんだけど,しかしそれを武器としてどういうふうに闘っていったのかを明らかにするような授業の展開をする時期にきていると思います。

          (福岡県同教機関誌『ウインズ』第11号 「部落史連続講座」)

以上,本論考において,従来の「近世政治起源説」による部落史学習を批判的に検証し,多様な部落史像を「差別の中をいかに生き抜いてきたか」の視点において捉える部落史学習を提起してみた。それは現代における部落問題を解消していくためには,自らの差別意識を洗い流していく以外に方法はないと確信しているからである。そして,その前提として我々教師が認識しておかなければならないのは,江嶋氏による現在の同和地区が抱えている「構造的不安定」の実態である。部落史学習は,この「構造的不安定」の実態を生み出してきた差別意識の歴史的系譜を解明するとともに,その差別意識によってどのような歴史的実態が生まれ,その実態の中を人々はどのように生き抜いてきたかを明らかにしていく課題を持つ。このような部落史学習の実践を通してこそ,生徒は<差別解消の主体者>になっていくと信じている。

posted by 藤田孝志 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 部落史概説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

部落差別は「深刻化」しているか

ここ数年,特に同和対策に関する措置法が失効して以後の状況を見ながら考えてきた問題がある。部落差別は果たして「深刻化」しているのか,また逆に解消しているのか,という素朴な疑問である。両方ともに「実態」としては事実であろう。各地域・各個人という面から考えれば,深刻化しているケースもあり,解消しているケースもある。また,何をもって深刻化ととらえるか,何をもって解消ととらえるかによって対極に分かれる。

…もしも,トイレ等に書かれた「落書き」の内容が,人々の共感を得ているものであるならば,「差別落書き」の多発が部落差別深刻化の根拠にもなるだろう。しかし,書かれている内容が多くの人達に共感をもって受け入れられている事例が存在するなどということは聞いたことがない。たとえば「エタ死ね」などという文言は,公衆の面前では,多くの人々の眉をしかめるものであることが社会的に明確になっているからこそ,だから“犯人”も,そのことが,わかっているからこそ,トイレ等での匿名の行為に及ぶのである。「差別落書き」多発=部落深刻化の論者は,これを“陰湿化”と言い,“深刻化”の根拠とするだろう。しかし,事態はむしろ逆で,このことは“差別をトイレに封じ込めた”ものとして捉えた方がいいのではないだろうか。

(畑中敏之『「部落史」の終わり』)

ネット上の差別書き込みや特定の個人に宛てた差別はがきにしても同様である。判断基準を「社会的価値観(倫理観)」とするならば,差別の違法性は十分に社会に認知されている。このことは,差別事象のほとんどが「匿名」「不特定」という隠れ蓑の中で行われていることからも明白である。ただし,これを「陰湿化」ととらえ,氷山の一角であり,多くの者は思っているが行為に及ばないだけだととらえるならば「深刻化」していることになる。逆に,多くの者は決してそうは思っておらず,一部の者による行為であるととらえるならば「解消化」していることになる。果たしてどちらであろうか。

これらの判断を難しくさせているのは,単に差別事象を行う「人数」では計れない個々人の「認識度」が関係しているからだ。通常の日常生活では何事もなく付き合っていながらも,心底には部落出身者に対する差別感をもっている者もいるだろう。差別行為には及ばずとも差別意識をもっている者もいるだろう。差別意識の程度は「認識度」に関係しているだけでなく,部落出身者あるいは部落との関わりにも左右されている。直接体験だけでなく,周囲の偏見や先入観など間接体験も「認識度」に深く影響を与えている。

当然のことだが,偏見や先入観を払拭するとともに正しい認識と指標をあたえることが啓発や教育の役割である以上,今後さらに人権問題や同和問題に関する「社会啓発」や「人権・同和教育」が必要なことは自明である。しかし,その状況分析と考察,対応・方法において従来のままでよいのであろうか。今までの同和教育において「柱」とされてきた「被差別の立場に学ぶ」ということが,単に「被差別の立場の側(味方)に立つ」ということになってしまい,部落至上主義・部落正当化主義という弊害を生んできたように思う。そして,最も疑問に感じているのは,<被差別者(被差別の立場・側に立つ者)でなければ差別者か>という命題である。

「まだまだ,こんなにもひどい差別がある」と居丈高に声をあげる「深刻化」論者の同調し,被差別者や被差別の立場に立つ者を絶対化し,同和教育や社会啓発こそが最高のものと信じ,同じ考えや同じ主義・主張の者だけを「仲間」として受け入れ,結束し特定の集団を構成していき,他をまるで「差別者」に荷担する者であるかのように批判する。実に巧妙な煽動によって同調者(仲間)を増やしていく。その求心力となり,大義名分となっているのは,無批判に正当化された「被差別の立場」である。

この問題について,小浜逸郎は『「弱者」とはだれか』の中で【「弱者」を「聖化」する作用】として,次のように考察している。

…被害者の共同性がいったん社会的なものとして認められると,それはそれだけでその共同性に属する個々人に対して超越的な力(共同幻想)を持つようになる。その力は集団の内部では彼らを従わせる規範として働くと同時に,集団が外に向かうときには,彼ら自身が持つ特権的な力であるかのように働きやすい。
…社会集団として認知され定着した「弱者」には,このように,自分たちは共通の弱者,被差別者として苦しみを共にしているという共同観念が不可分の形で張りついている。それが集団としてのアイデンティティの軸になっているので,実態が変化しても,なかなかそのことを認めようとしない。被差別者が差別の不当性を訴え続けるために(ときにはただ既得の利権にしがみつくためだけに),「自分たちは被差別者だ」という無理な言い聞かせが必要だからである。
守安の言う「部落民(部落)のアイデンティティを主張すればするほど差別が不可欠になるというディレンマ」は,灘本が指摘するとおり,現実が改善されてきたとき,概念と現実との剥離現象として顕在化する。
 …そして「被差別者」「弱者」としての集団アイデンティティの危機を,自分たちに向かっての無理な言い聞かせで埋め合わせようとし,ますます「被害の共同体」という記号化した特権性によりかかることになる。
その結果,いつまでもルサンチマンの固執から逃れることができない。…これが内部からの「弱者」聖化のからくりである。

小浜氏が文中で引用している灘本氏と守安氏の一文は次のものである。

…社会が以前より被差別者の声を尊重するようになったため,「弱者性」「被差別者性」は,行政からなにがしかの対策を引き出したり,世間の同情を得るための「資源」ともなりえることとなった。資源を発掘するためには差別の証拠探しが行われ,「弱者性」「被差別者性」の誇張もなされやすい。こうした状況は,人権の軽視されている時代より遙かに前進なのであるが,そこでの差別とのむきあい方を誤ると,ルサンチマンへの固執,負のアイデンティティー形成という思わぬ落とし穴に落ちることになる。

(灘本昌久「差別問題における思索と現実」『脱常識の部落問題』)

…極めて逆説的に言うならば,「部落民(部落)は部落民(部落)であり真の部落民(部落)は不変である」というアイデンティティーは被差別とは不可分ではないのか。差別されてきたからこそ部落民(部落)ではなかったのか。部落民(部落)のアイデンティティーのかなりの部分が,被差別であったが故に存在可能であったのではないか。
このことを部落解放との関わりで考えてみれば,部落解放が実現し被差別の状況が存在しなくなれば,部落民(部落)のアイデンティティーがほとんど存在しなくなる,ということと同じではないのか。つまり,部落民(部落)のアイデンティティーを主張すればするほど差別が不可欠になるというディレンマに陥らざるをえないのではないか。

(守安敏司「被差別とアイデンティティー」『脱常識の部落問題』)

この3人が指摘する「弱者の聖化」「ルサンチマンへの固執」「アイデンティティのディレンマ」こそが現在の部落問題あるいは部落解放運動にとっての大きな壁となっているように思う。

posted by 藤田孝志 at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 部落問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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